第二次マラーター戦争と講和条約の締結
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「ラグージー・ボーンスレー2世」の記事における「第二次マラーター戦争と講和条約の締結」の解説
こうして、1803年にヤシュワント・ラーオはボーンスレー家とシンディア家にイギリスへの戦いのため団結を求めた。ラグージーもイギリスの介入を脅威と考え、同年6月4日にこれらと同盟を締結した。 8月に第二次マラーター戦争が勃発したのち、9月11日にシンディア家は庇護下にあったデリーをイギリスに攻撃され、デリーがイギリスのものとなると(デリーの戦い)、ボーンスレー家とシンディア家は連合して戦うようになった。 だが、同月23日にシンディア家とボーンスレー家の連合軍がアッサイェの戦いで敗れ、11月のラスワリーの戦いとアルガーオンの戦いでも連合軍は大敗し、12月にガーウィルガルが落とされたとき、ここから講和への流れが強まっていった。 12月17日、ボーンスレー家はイギリスと講和条約デーオガーオン条約を締結し、戦争から真っ先に離脱した。この条約でオリッサのカタック、南ベラールなどを領土の約3分の1を割譲させられた。
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