マケドニア王国との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 17:17 UTC 版)
カイロネイアの戦いにおいて、デマデスはマケドニア王国と戦い、捕虜になった。ピリッポス2世に好印象を与えたデマデスは、仲間の捕虜たちとともに解放され、マケドニア王国とアテナイの間に和平条約をもたらすべく働いた。 デマデスは王子アレクサンドロス(後の「大王」)にも気に入られており、賄賂を受け取ったこともあって、アレクサンドロスの復讐の的になりかけたデモステネスら嫌われ者の雄弁家たちの命を救った。テーバイを破壊したアレクサンドロスが、アテナイを寛大に扱ったのは、もっぱらデマデスの功績だった。 デマデスはマケドニア王国を支持して活動していたが、対立する陣営からも提供される賄賂を受け取っており、このために重い罰金を課されることも一度ならずあり、遂には市民権を剥奪された。紀元前322年、(マケドニアの将軍)アンティパトロスの軍勢が迫ると、デマデスは復権し、アンティパトロスのもとへ(アテナイからの)大使として送られた。出立前に、デマデスは市民たちを説得して(反マケドニアを主張していた)デモステネス一党に死刑判決を出させ、デモステネスたちはアテナイから逃亡した。デマデスが大使となった結果、講和はアテナイにとって非常に不利な内容で結ばれた。 紀元前318年(あるいはそれより前)、アテナイから別の使命を与えられてマケドニアに赴いていたとき、アンティパトロスのライバルだったペルディッカスと陰謀を謀っていたことが露見し、デマデスはペラでアンティパトロスから死刑に処された。デマデスは強欲で狡猾な人物であったが、才能も実績もある優れた雄弁家であった。アッリアノスによれば、デマデスはアンティパトロスの息子カッサンドロスによって、抱いていた息子を惨殺された後、自身も殺されたという。カッサンドロスは、デマデスがペルディッカスへの手紙でアンティパトロスを中傷していた、として自らの行為を正当化した。
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