マケドニアとの抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 16:13 UTC 版)
マケドニア王国のピリッポス2世は、覇権国家だった当時のテーバイに人質として暮らし、エパメイノンダスから教育を受けたとされる。 紀元前339年、アテナイの指導者であるデモステネスは、反マケドニアの立場でテーバイを説得し、同盟を結んだ。紀元前338年のカイロネイアの戦いで、ピリッポス2世とその子アレクサンドロス(のちのアレクサンドロス3世)が率いるマケドニア軍と戦ったテーバイ・アテナイ連合軍は敗れた。この戦いで、神聖隊も壊滅を遂げた。これにより、ギリシャに対するマケドニアの影響を排除する希望は失われた。ピリッポス2世はボイオーティアに対する支配権を剥奪するのみで満足した。 紀元前335年、ピリッポス2世が暗殺されると、ギリシャの諸都市はマケドニアから離反した。テーバイはアテナイと結び、蜂起した市民はマケドニア軍を追放してアレクサンドロス3世に反旗を翻した。北方を転戦していたアレクサンドロスは直ちに反応してギリシャに急行した。他の都市はアレクサンドロスの強行軍の前に抵抗をためらったが、テーバイは徹底抗戦を決めた。結果、テーバイは蹂躙された。テーバイは徹底して破壊され、殺戮の中で生き残った住民は奴隷として売り飛ばされた。破壊を免れたのは寺院とピンダロス(テーバイ出身の紀元前5世紀の詩人)の家のみ、奴隷化を免れたのは聖職者と親マケドニアの指導者、ピンダロスの末裔だけであった。テーバイの末路に恐怖したアテナイは、マケドニアに屈服した。
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