ローマの異端審問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:11 UTC 版)
1542年、時の教皇パウルス3世によってローマに設けられた異端審問所は、従来のような教皇によって少数の異端審問官が任命されるシステムを廃し、神学者や学識の誉れ高い枢機卿たちからなる委員会が、特定の教説や著作に対して異端性がないかどうかを審議すると同時に、各国で行われる異端審問に問題がないよう監督することを目的としてつくられた。ローマの異端審問所は後に「検邪聖省」と改称され、教皇庁の一機関として機能した。検邪聖省は各国のよりすぐりの神学者、哲学者、教会法の専門家たちをアドバイザーとして抱え、彼らの意見に基づいて審議を行っていた。当初はジョルダーノ・ブルーノの断罪といったケースも扱っていた検邪聖省だったが、やがて個人の断罪よりも著作物を中心とした思想の審議が任務となっていき、それに伴って禁書目録の作成を行うようになった。発足以来、ローマの異端審問所である検邪聖省の決定のおよぶ範囲はイタリア国内に限られており、国外に対しては禁書目録の送付や決定事項の連絡以上の影響力を及ぼさなかった。検邪聖省の扱った事案でもっとも有名なものはなんといっても17世紀のガリレオ・ガリレイの著作に関する事案(いわゆるガリレオ裁判)であった。禁書目録は廃止されて久しいが、検邪聖省自体は教理省に改称して現在でも存続している。
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