1600年以降とは? わかりやすく解説

1600年以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 23:37 UTC 版)

イタリア・ルネサンス年表」の記事における「1600年以降」の解説

1600年代セイチェント Seicento):トリエント公会議以後ローマカトリック首都として装い新たに作り変えられイエズス会中心に強化され対抗改革美学新し時代規範とされていく。前世紀までの晦渋複雑な貴族趣味的マニエリスム芸術忌避されるようになり、一般信徒向けたカトリック信仰教化のため、写実主義古典主義復活する写実主義代表するのがカラヴァッジオであり、古典主義代表するのがカラッチ一族である。これらの傾向とともに演劇的な表現加味されバロック呼ばれる新し様式生み出された。 1600年 - ジョルダーノ・ブルーノ火刑1600年 - カラヴァッジオ聖マタイの召命」。 1600年 - ステファノ・マデルノ「聖チェチリア像」。 1600年 - ルーベンスマントヴァ公宮廷画家となる。 1600年 - ドイツ人画家アダム・エルスハイマーローマ定住する( - 1610年)。 1600年 - エミリオ・カヴァリエリ「魂と肉体の劇」(最古オラトリオ)。 1600年 - マリア・デ・メディチ(マリー・ド・メディシス)とフランス国王アンリ4世結婚1600年頃 - 【イングランド】アイザック・オリヴァー「女王エリザベス1世の虹の肖像画」。 1601年 - ジュリオ・カッチーニ新し音楽』で通奏低音を伴うモノディ形式紹介1602年 - ヴェネツィア航海条例を出す。自国貿易振興目指すが、外国船を追い出すこととなり、ヴェネツィア没落決定的リヴォルノ優位に立つ。 1602年 - カンパネッラ太陽の都執筆1602年 - フォルチューニオ・リチェティ『人間霊魂起源について』。 1602年 - アントニ・コンティノによるヴェネツィア溜息橋(ポンテ・デイ・ソスピリ)完成1602年 - アンニーバレ・カラッチとその一族ファルネーゼ宮殿壁画完成1603年 - フェデリコ・チェージらによりアッカデーミア・デイ・リンチェイ山猫学会)が設立される1603年 - 【イングランド女王エリザベス1世死去スコットランド王ジェームズ6世イングランド王ジェームズ1世として即位1603年 - 【オランダヤーコブス・アルミニウスライデン大学教授招かれるカルヴァン予定説対し人間自由意志持ち上げアルミニウス主義起こり改革派から異端とされる1604年 - 【オランダカレル・ヴァン・マンデル画家列伝画家の書)』。ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』を模範北方ルネサンス画家画業をまとめる。 1605年 - 教皇クレメンス8世死去メディチ家出身教皇レオ11世即位レオ11世即位20余日死去続いてボルゲーゼ家出身教皇パウルス5世即位1605年 - 【スペインセルバンテスドン・キホーテ前編出版後編1615年出版)。 1606年 - 教皇パウルス5世ヴェネツィアに聖務禁止令を通達法律顧問となったフラ・パオロ・サルピヴェネツィア擁護論陣を張る(→1607年)。 1607年 - 聖務禁止解除事実上ヴェネツィア勝利、しかし同年フラ・パオロ・サルピ暗殺未遂事件発生1607年 - 枢機卿フェデリコ・ボッローメオによりミラノアンブロジアーナ図書館設立される1607年 - フェデリコ・ツッカリ彫刻絵画そして建築理念出版1607年 - モンテヴェルディオペラオルフェオ』。 1608年 - カラヴァッジオによるマルタ島バレッタ聖ヨハネ大聖堂の「洗礼者聖ヨハネ斬首」。 1609年 - トスカーナ大公フェルディナンド1世死去息子コジモ2世が公位を継承1609年 - アダム・エルスハイマーエジプトへの逃避」。 1609年 - 【スイスジュネーヴ司教フランシスコ・サレジオ信心生活入門』。 1610年 - カラヴァッジオがポルト・エルコーレにて熱病死去1610年 - ガリレオ・ガリレイ木星4つ衛星ガリレオ衛星)を発見し、「メディチ家星々」と名付ける。この発見は『星界の報告』にまとめられ出版ガリレオピサ大学教授トスカーナ大公哲学者任命される1610年 - 【フランス国王アンリ4世暗殺されるルイ13世即位王母マリー・ド・メディシス摂政(→1600年)、イタリア人アンクル元帥コンチーノ・コンチーニ補佐官となる。 1610年頃 - オラツィオ・ジェンティレスキゴリアテの首を見つめるダヴィデ」(ローマ・スパーダ絵画館)。 1611年 - カルロ・ジェズアルド「聖務週間日課のためのレスポンソリウム集」(→1590年)。 1611年 - 【イングランド国王ジェームズ1世の命による欽定訳聖書出版 1612年 - クルスカ学会により最初イタリア語辞書『クルスカ辞典』が出版される(→1583年)。 1612年 - 女流画家アルテミジア・ジェンティレスキへの暴行事件裁判が行われる。 1612年 - ロレーヌ公国(現フランス出身版画家ジャック・カロフィレンツェ定住する( - 1621年)。 1612年 - パドヴァ大学教授サントーリオ・サントーリオ体温計発明1612年 - サンタ・マリア・ノヴェッラ教会付属薬局1221年創業)が公式認可されトスカーナ大公御用達となる。 1612年 - 【イングランドシェイクスピアテンペスト初演1612年 - 【ドイツヤコブ・ベーメアウローラ』。 1613年 - ラヴィニア・フォンターナ服を着るミネルヴァ」。 1613年 - バルトロメオ・スケドーニキリストの墓の前のマリアたち」。 1613年 - アルテミジア・ジェンティレスキホロフェルネスの首を斬るユーディット」。 1613年 - 【スペインルイス・デ・ゴンゴラ長編詩『孤独出版、その晦渋な作風を「ゴンゴラ主義(ゴンゴリスモ)」と呼ぶスペイン文壇晦渋なカルテラニスモ(ゴンゴラ中心)と明瞭なコンセプティスモ(ケベードが中心)の両者対立する1614年 - ジャンバティスタ・マリーノリーラ出版、「マリーノ主義」と呼ばれる誇張され過剰な表現形式用いる。 1614年 - グイド・レーニによるパラヴィチーニ・ロスピリオージ宮殿壁画アウローラ完成1614年 - 【スコットランドジョン・ネイピアによる対数表完成対数概念発見1594年)。 1615年 - 日本慶長遣欧使節一行教皇パウルス5世謁見1616年 - 枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼの命によるローマのボルゲーゼ宮殿完成1611年 - )。 1616年 - ガリレオ・ガリレイ第1回宗教裁判(→1633年)。 1616年 - 【スペインセルバンテス死去1616年 - 【イングランドシェイクスピア死去1616年 - 【ドイツヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ化学の結婚出版1617年 - 【イングランドロバート・フラッド『両宇宙誌刊行始まる( - 1621年)。 1618年 - 【ボヘミア第二次プラハ窓外投擲事件三十年戦争始まる( - 1648年)。 1619年 - フラ・パオロ・サルピトリエント公会議歴史』。 1619年 - ジャンバッティスタ・マリーノガレリア』。 1619年 - ヴィンチェンツォ・スカモッツィ普遍的建築理念』。 1620年 - パルマ公ラヌッチョ1世の命によるファルネーゼ家居城ピロッタ宮殿完成1620年 - ドメニキーノヴェローナの聖ピエトロ受難完成1618年 - )。 1620年 - 【イングランドフランシス・ベーコンノヴム・オルガヌム出版。この著作の中で「活版印刷」「羅針盤」「火薬」のいわゆる「(ルネサンスの)三大発明」が言及されている。 1621年 - 教皇パウルス5世死去教皇グレゴリウス15世即位1621年 - 【イングランド】ロバート・バートン『憂鬱解剖学』。 1622年 - 教皇グレゴリウス15世によりイグナチオ・デ・ロヨラザビエルアビラのテレサフィリッポ・ネリ列聖される。 1622年 - グエルチーノ「われアルカディアにもありき」完成1618年 - )。 1623年 - 教皇グレゴリウス15世死去、バルベリーニ家出身の教皇ウルバヌス8世即位 1623年 - ジェノヴァにてソフォニスバ・アングイッソラフランドル画家アンソニー・ヴァン・ダイク訪問を受ける。 1623年 - ガリレオ・ガリレイの『贋金鑑識官』、教皇ウルバヌス8世への献辞をつけて刊行される1623年 - 【フランスマラン・メルセンヌ神父の『創世記諸問題』が出版されロバート・フラッドとの論争引き起こす1624年 - イングランド国教会からの転向者でローマの異端審問有罪となったマルコ・ドミニス獄死1624年頃 - ナポリ活躍した奇想風景画家モンス・デジデリオ活躍終わり迎える。 1625年 - 【フランス枢機卿リシュリュー主席国務大臣事実上宰相)となる(-1642年)。 1624年 - フランス人画家ニコラ・プッサンローマ定住以後人生大半ローマで過ごす( - 1665年)。 1625年 - 【フランスフーゴー・グロティウス戦争と平和の法』をパリにて出版1625年 - 【フランスルーベンスマリー・ド・メディシス(マリア・デ・メディチ)の生涯完成1626年 - 教皇ウルバヌス8世によるローマ・サン・ピエトロ大聖堂献堂式1626年 - ウルビーノ公国後継者不在となり、ウルビーノ教皇領編入される1626年 - 【スペインフランシスコ・デ・ケベード悪漢小説ペテン師ドン・パブロスの生涯』。 1626年 - 【ドイツケプラールドルフ表」。 1627年 - フランス人画家クロード・ロランローマ定住以後人生大半ローマで過ごす( - 1682年)。 1628年 - マントヴァ継承戦争イタリア語版英語版勃発1629年 - スペイン人画家ベラスケスイタリア訪問(-1630年)、途中ナポリ画家ホセ・デ・リベーラ交流1630年頃 - ボッロメーオ家のカルロ3世によりマッジョーレ湖イゾラ・ベッラ別荘造営される。 1631年 - ケラスコ和約結ばれマントヴァ継承戦争終結。この戦争前後マントヴァ公国美術コレクション散逸多くイングランド国王チャールズ1世流れる。 1631年 - サンマリノ教皇ウルバヌス8世により独立承認される1631年 - 【イングランド形而上詩人ジョン・ダン死去1631年 - 【モラヴィアコメニウス地上迷宮と心の楽園出版1632年 - カルロ・ドルチ「アイノルフォ・デ・バルディの肖像」。 1632年 - ローマバルベリーニ宮殿オペラ「聖アレッシオ」が上演される作曲はステファノ・ランディ、台本はジュリオ・ロスピリオージ(後の教皇クレメンス9世)。 1632年 - ガリレオ・ガリレイ天文対話』をフィレンツェ出版(→1633年)。 1632年 - 【オランダレンブラントテュルプ博士の解剖学講義」。 1632年 - 【ポーランドカルヴァリア・ゼブジドフスカマニエリスム様式礼拝所整備される1600年 - )。 1633年 - ガリレオ・ガリレイ第2回宗教裁判1633年 - ベルニーニによるローマ・サン・ピエトロ大聖堂天蓋付き主祭壇(バルダッキーノ)完成1624年 - )。 1634年 - ジャンバティスタ・バジーレ遺稿から説話集ペンタメローネ五日物語)』出版死去1632年) 。 1634年 - カンパネッラフランス亡命する1635年 - フレスコバルディ音楽の花束」。 1635年 - 【フランスマラン・メルセンヌ神父による学識者研究会「メルセンヌ・アカデミー」が開かれる1635年 - 【スペインカルデロン人生は夢』。 1635年 - 【スペインベラスケスブレダの開城完成1636年 - イングランド哲学者ホッブズガリレオ・ガリレイ訪問1637年 - 【オランダチューリップ・バブル崩壊世界初バブル経済)。 1637年 - 【フランスデカルト方法序説出版1638年 - イエズス会士アタナシウス・キルヒャーグレゴリアン大学オリエント諸語講義始める。 1638年 - バルベリーニ家出身の教皇ウルバヌス8世の命によりバルベリーニ宮殿完成バロック建築の代表とされる宮殿で、カルロ・マデルノによる設計1625年着工され正面ファサードは主にベルニーニが、細部装飾についてはボッロミーニ携わった1638年 - イングランド詩人ジョン・ミルトンガリレオ・ガリレイ訪問1638年 - 【フランス】ジャン・フランソワ・ニスロンが『奇妙な遠近法』でアナモルフォーシス作図法をまとめる。 1639年 - ピエトロ・ダ・コルトーナによるバルベリーニ宮殿大広間天井画神の摂理完成1633年 - )。 1639年 - ナポリスペイン人画家ホセ・デ・リベーラによる「聖バルトロマイ(聖フィリポ)の殉教」。 1639年 - 【フランスカンパネッラパリドミニコ修道院死去(→1634年)。 1640年 - 【フランドル】イプル司教コルネリウス・ヤンセン遺作アウグスティヌス』がルーヴァン出版される。翌1641年にはパリでも出版カトリック教会揺るがすジャンセニスム論争が始まる。 1640年 - 【スペインバルタサル・グラシアン政治家カトリックフェルナンド』。 1640年頃 - 【フランスジョルジュ・ド・ラ・トゥール大工の聖ヨセフ」。 1641年 - カストロ領有権めぐってパルマ公オドアルド1世教皇ウルバヌス8世衝突カストロ戦争、 - 1649年)。 1641年 - アタナシウス・キルヒャー磁石あるいは磁気の術』を出版1642年 - モンテヴェルディオペラポッペーアの戴冠」。 1642年 - アルチェトリにてガリレオ・ガリレイ死去1642年 - 【イングランドイングランド内戦から清教徒革命勃発( - 1649年)。 1643年 - アタナシウス・キルヒャー『リングア・エジプティアカ・レスティトゥタ(エジプト言語再構築)』を出版1643年 - モンテヴェルディ死去1657年 - メディチ家援助により、ガリレオ弟子トリチェリらによってアカデミア・デル・チメント設立される1668年 - カトリック帰依したクリスティーナスウェーデン女王ローマ定住1674年にはアカデミーAcademia clementina)を設立

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1600年代

1600年代ヨーロッパ人入植者が移住してくる以前は、現在のハーレム・エリアにはManhattans と呼ばれる部族などのネイティブ・アメリカン部族が住んでいた。おそらく彼らのほとんどはレナペ族で、半遊牧民的な生活を営んでいた。ハーレムの平地では何百人もの人々が農作をしていた。1637-1639年には、ヨーロッパ人による最初の入植が確立された。1637年に、最初のヨーロッパ人 de Forest, Isaac de Forest、およびRachel de Forest)がこの地区に住み着いた。1639年にはen:Jochem Pietersen KuyterがZedendaalまたはBlessed Valleyと呼ばれる農園を、ハーレム川沿いの現在の127丁目から140丁目の間に開拓した。初期の入植者は先住民との対立のためマンハッタン島南部のニューアムステルダムの市街地内に避難することを余儀なくされていたが、オランダ人の入植が進むにつれ先住民は徐々にマンハッタン島から姿を消していった。ハーレム・エリアの集落はオランダの町ハールレムにちなんでニュー・ハーレムと名付けられ、1658年に正式な村として組織された。これはピーター・ストイフェサントの下に行われた。ハーレムの豊かな牧草地に通じるインディアンの小径はオランダ西インド会社の黒人労働者により拡張され、後のボストン郵便道路 となる。1664年に、イギリスがニューネーデルランドの支配権を取得し、ニューヨーク植民地総督リチャード・ニコルズはニュー・ハーレムの南端の境界線として現在のイースト川と74丁目の位置から西に伸びる"Harlem Line"を定めた。イギリスはこの地区の名前を"ランカスター" に変更しようと目論んだが定着せず、最終的にはオランダ語のHaarlemが英語化してHarlemという現在の名称に落ち着いた。オランダは1673年に一年だけニューヨークの支配権を取り戻している。ハーレム村はゆっくりと発展し、18世紀半ば頃にはニューヨーク市の裕福な人たちの保養地となった。この当時の建物はモリス=ジュメル・マンション しか現存していない。1700年代

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