没年および法名について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/06 07:54 UTC 版)
円融院は文禄3年(1594年)に没し法鮮尼と呼ばれたとの説が広く普及しているが、これは「法鮮」銘五輪塔(岡山市徳吉町)や某寺の過去帳に法鮮を「宇喜多氏御前」とすることに基づくものである。しかし実際には円融院が慶長5年(1600年)以降も生存していたことが自筆書状(焼失、備前難波文書)から明らかになっている。 そこで同塔を生前の逆修墓とする見解もあるが、これも当時のイエズス会士の書簡に当時「宇喜多左京亮」を名乗っていた坂崎直盛の室「宇喜多氏御前」が岡山で病死したとの記述があり、時期的にも符合することから、これをこの女性に比定するのが妥当との見解が近年出されるに至っている。
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