没収試合第1号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 09:53 UTC 版)
1946年5月に行われた4試合(5月20日・対セネタース戦、5月23日・対近畿グレートリング戦、5月24日・対阪急軍戦、5月26日・対近畿グレートリング戦。全て球場は西宮球場)がいずれも0-9敗戦の没収試合となり、5月20日の試合がその第1号となった。 これは当時の監督・藤本定義が、戦前既存球団でプレーしていた元東京巨人軍の白石敏男と元阪神軍の藤井勇の2名について、この年からパシフィックのメンバーとして登録させたが、これを巡っての調査中にもかかわらず同年5月の公式戦4試合に出場させたとして、当該4試合を没収試合(0-9の敗戦)扱いとさせられた(なお元東京巨人軍のヴィクトル・スタルヒンも調査対象となっていたが、当該4試合には出場していない)。この4試合での白石と藤井の出場状況は以下の通りである。 月日対戦相手白石敏男藤井勇5月20日 セネタース 5回裏、藤村隆男の代打 不出場 5月23日 近畿グレートリング 1番・遊撃手で先発 4番・右翼手で先発 5月24日 阪急軍 1番・遊撃手で先発 4番・右翼手で先発 5月26日 近畿グレートリング 不出場 4番・右翼手で先発 このうち5月23日に阪急西宮球場で行われた近畿グレートリング戦は7-4でパシフィックが勝っていた試合の勝敗がひっくり返ってしまい、これが効いて近畿グレートリングは東京巨人軍に1ゲーム差をつけての初優勝を果たした(放棄・没収試合の場合には個人成績は残るものの、このケースのように勝敗がひっくり返った場合は勝利投手・敗戦投手の記録だけが抹消される)。放棄・没収試合を2回以上犯したのは他に大阪タイガース・阪神タイガース(1954年[この時は大阪タイガース]・1967年[この時は阪神タイガース])だけであるが、1年で複数回犯したのはこの時のパシフィックだけであった。
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