ガリレオ裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:02 UTC 版)
詳細は「ガリレオ・ガリレイ#裁判」を参照 ジョンズ・ホプキンス大学の科学史教授ローレンス・M・プリンチペ(英語版)は、「ガリレオと教会」は神話と誤解に満ちたエピソードであると指摘している。知的・政治的・個人的問題が絡みあって起きた事件であり、いまだ完全に解明されていないが、「宗教対科学」という単純な構図ではなかったことが分かっている。科学と宗教の対立という構図は、19世紀に科学者によって作られたストーリーである。 地球中心説がカトリック教会の正式な教義であったことはなく、教会は地球中心説と太陽中心説のどちらが真実かという問題に直接利害関係を持っていなかった。ガリレオの支持者と反対者は教会の中と外の両方に存在しており、ガリレオの最初の主要な支持者はイエズス会の天文学者たちであった。宗教裁判所がガリレオに出した地球の運動を撤回するようにという命令は、タイミングの悪さや政治的陰謀、教会の派閥争い、聖書の解釈権、友人だったローマ教皇ウルバヌス8世(マッフェオ・バルベリーニ)とのいさかいなどから起こったと考えられている。聖書の解釈権を有しているのは教会であったが、「動く地球」が聖書の解釈に関わっており、ガリレオは1610年代にこの問題について、自説を擁護するために性急に口出しをしていた。自分の主張を通すために伝統的な解釈を拒否するというやり方は、同時代のプロテスタントに似ていた。ガリレオはウルバヌス8世と、太陽中心説と地球の運動の明らかな証拠が出るまで仮説として扱うという約束をし、『天文対話』を書く許可を得た。しかし、ヴァチカンの許認可官と検閲官の承認を得て本が世に出ると、ウルバヌス8世は、約束した内容は最終ページでわずかに触れられるのみで、しかも道化役を演じた人物から語られていることを知った。三十年戦争に関する外交交渉、政争や批判で疲弊していたウルバヌス8世は侮辱されたと感じて激怒し、宗教裁判所による司法取引の提案を拒み(司法取引が認められれば、ガリレオは軽微な罪とされ自宅に帰されるはずだった)、ガリレオに地球の運動を撤回するように命じ、ガリレオはこれに同意した。しかしウルバヌスの甥を含む枢機卿たち数人は、ガリレオの判決文に署名することを拒否しており、教会の総意でなかったことがわかる。 その後、ガリレオはトスカーナにある自分の別荘に軟禁され、そこで仕事を続け、弟子を教え、もっとも重要な本『新科学論議』を書いた。今日では、ガリレオは異端として断罪された、投獄されたといわれることも多いが誤りである。裁判の際にガリレオが「それでも地球は回っている」と呟いたというエピソードに証拠は存在しないが、現在に至るまで象徴的に語り継がれている。
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