ガリレオ裁判以降
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ガリレオの判決の影響を正確に推し量ることは難しい。ルネ・デカルトなど何人かの自然哲学者は、コペルニクス説への確信を表明しようとしなくなった。カトリックの聖職者はコペルニクス体系を公然と支持できなくなり、ティコ・ブラーエの体系かその変形版を採用した。しかし一方で、天文学を含む科学的探究は、イタリアやほかのカトリック国でも行われ続けていた。ヨハネス・ケプラーは、神聖ローマ帝国皇室付数学官(宮廷付占星術師)でありながら、平然と地動説を唱え続け、著書がローマ教皇庁から禁書に指定されても、それを理由に迫害を受けることはなかった。 コペルニクスの説は、天体は円運動をするという従来の常識に縛られており、プトレマイオスの天動説と同様に周転円を用いて惑星の運動を説明していた。ケプラーはティコ・ブラーエの観測記録を丹念に研究し、惑星の軌道が楕円と仮定するとより単純かつ正確に軌道を説明できることを発見し、それを元に『ルドルフ表』(ルドルフ星表)を作り、1627年に公刊した。それ以前の星表の30倍の精度を持つルドルフ星表は急速に普及し、教皇庁が何と言おうと、惑星の位置は地動説を元にしなければ計算できない時代が始まりつつあった。ルドルフ表の精度の前には、いまだ年周視差が観測できないという地動説の欠点は、些細な問題と考えられた。 しかし、ケプラーもガリレオも、鳥がなぜ取り残されないのか、地球がなぜ止まらないで動き続けているのか、という疑問にはいまだ正確な答えが出せないままでいた。ガリレオは慣性の法則を発見するも、その現象がなぜ起きるかの原因の説明には至らなかった。これを完成させるのは、アイザック・ニュートンの登場を待つ必要があった。ニュートンが慣性を定式化すること、万有引力の法則を発見すること、科学において原因については仮説を立てる必要はないとする新しい方法論を提示することで、地動説はすべての疑問に答え、かつ、惑星の位置の計算によってもその正しさを証明できる学説となった。 また、ガリレオやケプラーの地動説は、宇宙の中心を太陽とするものであった。ニュートンの万有引力の法則は、惑星が太陽を中心に公転するのは、単に太陽が惑星と比べて質量がきわめて大きいからにすぎないことを示し、太陽が宇宙の中心であるという根拠は存在しなかった。ニュートン以降も太陽が宇宙の中心とする考えに縛られていた研究者も多く、たとえばウィリアム・ハーシェルは銀河系が円盤状構造であることを発見しながら、太陽がその中心にあると考えたが、次第に太陽も数多くの恒星のひとつにすぎないという認識が広まっていった。年周視差がいまだ観測できないことは、恒星が惑星よりもはるかに遠方にあることを意味し、それでもなお地球まで光が届くことは、恒星が太陽に匹敵あるいは凌駕する規模の天体であることを意味していたからである。 ただし、地動説の証明を確固たるものとするには、ジェームズ・ブラッドリーの光行差の発見、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ベッセルによる年周視差の観測の成功も必要となる。 1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はガリレオ裁判の誤りを認め、公式に謝罪した。2008年にはローマ法王ベネディクト16世が「彼の研究は信仰に反していなかった」と地動説を公式に認める発言を行っている。 2014年、アメリカ科学振興協会は、アメリカ人の約4人に1人は、いまだ地球が太陽の周りを公転していることを知らないという結果を公表している。
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