ローマの第一人者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:47 UTC 版)
「グナエウス・ポンペイウス」の記事における「ローマの第一人者」の解説
一連のポンペイウスの遠征によって、ローマの領土は黒海沿岸からカフカス、シリア・パレスチナまで広がり、ポンペイウスはローマへ金20,000タラントを国納し、国庫に収める税収は例年の5000万ドラクマから8500万ドラクマへ伸びたとプルタルコスは記している。 ポンペイウスによるオリエント・小アジアの新しいローマ属州への統治はヒスパニアの時と同様に極めて手堅いものであったとされ、ポンペイウスにとっては小アジア・オリエントも重要な勢力圏となった。キケロはポンペイウスによる小アジア・オリエントの共和政ローマへの統合について「(これらの地区を)果てしない対外戦争と国内での内戦状態から救い出し、恒久的な平和が達成されたが、これを維持するのに必要な経費をアジア人の富から拠出することはローマだけでなく、これら地区の住民にとっても必要である」との趣旨の書簡を残している。 元老院はポンペイウスが独裁官就任を望んでいるとの不安を持っていたことから、疑いを解くためにブルンディシウム(現:ブリンディジ)で軍を解散させた。元老院の許可を得た上で、ポンペイウスは45歳の誕生日でもあった紀元前61年9月29日に3度目の凱旋式をローマで挙行した。海賊征討戦や小アジア・オリエントでの勝利を祝った成果はローマ建国史上で空前のものであり、戦闘シーンを表現する略奪品、捕虜を行軍させ、軍のパレードと共に自らの功績を掲げたプラカードを掲げた。凱旋式の後は壮大な宴会をローマ市民へ提供したことで、ポンペイウスの人気はローマ随一となった。
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