ローマへの到着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 09:36 UTC 版)
その後のトロイのパラディウムの行方については様々な説があり、アテネ、アルゴス、スパルタといったギリシャ国内説や、イタリアのローマという説もある。ローマ説は、アイネイアースが持ち込んだという説(この場合、ディオメーデースが盗んだのは偽物とする)とディオメーデース自身が引き渡したとする説に分かれる。パラディウムと言い伝えられた像がフォルム・ロマヌムのウェスタ神殿に安置されていた。 その後、コンスタンティヌス1世がパラディウムをローマからコンスタンティノポリスに移し、フォルム内のコンスタンティヌスの円柱 (en) の下に埋めたと噂された。そのような噂はローマの没落を説明するもので、コンスタンティヌス1世の治世(首都移転)を正当化するものだといえる。 大プリニウス (N'H, VII, XLV) によれば、メテッルスはウェスタ神殿が火事になったときパラディウムを救い出そうとして盲目になったという。この故事はオウィディウスやウァレリウス・マクシムスもほのめかしている。
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