オランダでの隠棲時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 09:52 UTC 版)
「ルネ・デカルト」の記事における「オランダでの隠棲時代」の解説
1628年にオランダに移住する。その理由は、この国が八十年戦争によって立派な規律を生み出しており、最も人口の多い町で得られる便利さを欠くことなく、「孤独な隠れた生活」を送ることができるためであった。 32歳のデカルトは、自己の使命を自覚して本格的に哲学にとりかかる。この頃に書かれたのが『世界論』(『宇宙論』)である。これは、デカルトの機械論的世界観をその誕生から解き明かしたものであった。しかし、1633年にガリレイが地動説を唱えたのに対して、ローマの異端審問所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こる。これを知ったデカルトは、『世界論』の公刊を断念した。 1637年、『方法序説』を公刊する。 1641年、デカルト45歳のとき、パリで『省察』を公刊する。この『省察』には、公刊前にホッブズ、ガッサンディなどに原稿を渡して反論をもらっておき、それに対しての再反論をあらかじめ付した。『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まる。その一方で、この年の暮れからユトレヒト大学の神学教授ヴォエティウスによって「無神論を広める思想家」として非難を受け始める。 1643年5月、プファルツ公女エリーザベト(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女)との書簡のやりとりを始め、これはデカルトの死まで続く。エリーザベトの指摘により、心身問題についてデカルトは興味を持ち始める。 1644年、『哲学原理』を公刊する。エリーザベトへの献辞がつけられる。 1645年6月、ヴォエティウスとデカルトの争いを沈静化させるために、ユトレヒト市はデカルト哲学に関する出版・論議を一切禁じる。 1649年『情念論』を公刊する。
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