オランダからルール地方へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 04:55 UTC 版)
「装甲教導師団」の記事における「オランダからルール地方へ」の解説
アルデンヌ攻勢が失敗した後、装甲教導師団は新たに補充を受けたものの、編成当初の装備量とはかけ離れていた。多数の古参兵が戦死しており、1945年初頭の装甲教導師団は、1944年6月の編成当初の頃と比べて、あきらかに兵力が削減されていた。 師団は北へ移動してラインラントへ入り、第1降下猟兵軍の傘下として、バーナード・モントゴメリーのイギリス・カナダ第21軍集団(英語版)と再び、ヴェリタブル作戦(英語版)の間に交戦した。装甲教導師団は非常に激しい戦闘に遭遇し、再び大きな被害を被った。この戦闘により、3月15日には、装甲教導師団は6輌の4号戦車、29輌のパンター戦車、14輌の4号駆逐戦車のみが運用可能となっていた。 アメリカ軍第9機甲師団(英語版)がドイツ西部のレマーゲンでルーデンドルフ橋を奪取し橋頭保を築いたので、装甲教導師団は橋頭保を粉砕すべく送り込まれたが、橋頭保の制圧には失敗した。(レマーゲンの戦い) 連合軍による地上と空からの攻撃は、師団に多数の死傷者を強いた。この頃にはわずか300名の兵士と15輌の戦車にまで規模が縮小していた。戦闘を継続しつつドイツ北西部での撤退戦に参加し、師団はルール地方の包囲網に封じ込められた。師団の残存戦力は、4月15日にアメリカ軍第99歩兵師団(英語版)に降伏した。
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