オランダからイングランドへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 07:19 UTC 版)
「庭園史」の記事における「オランダからイングランドへ」の解説
「オランダの庭園」および「オランダ式バロック建築(英語版)」も参照 フランスのフィリベール・ド・ロルム(英語版)の理論やオランダのハンス・フレーデマン・デ・フリースの著作とともに、仏蘭の建築家の余波は16世紀ごろからイングランドの王室庭園に広がっていった。 ネーデルラント連邦共和国が17世紀にスペインの独立承認を正式に受けると、イタリアやフランスの庭園様式が吸収されたとともに、ルイ14世がナントの勅令を差し止めたことで亡命してきたフランスからのユグノーダニエル・マロット(英語版)が大きな役割を果たした。国土面積が小さいネーデルラントではフランスのように広い場所を要する噴水や彫刻などが置けないため、並木や鉢、トピアリーが中心の庭園となった。マロットは当時のオレンジ公ウィリアムとメアリー・スチュアートのために建造されたヘット・ロー宮殿(英語版)の庭園を造った。テラスはツゲでできたアラベスク模様のパルテールで彩られ、正方形の花壇の周囲には貴重な植物種が1つずつ飾られていた。名誉革命が起きて1689年にオランダ総督だったウィリアムがイングランド王に即位すると、ハンプトン・コート宮殿の庭園には池や水路に並行して置かれた植木鉢といった、オランダ風の要素が見られるようになった。
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