オランダとの分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/26 00:47 UTC 版)
「サン・マルタン島」の記事における「オランダとの分割」の解説
空白となった島に、オランダとフランスが再び植民に乗り出した。フランスはセントキッツ島から、オランダはシント・ユースタティウス島から、それぞれ植民者を島に送り込んだ。この過程で衝突も発生し、相手が容易に退かないことを知った双方は、全面戦争に突入することを避けるべく、1648年にコンコルディア条約 (Treaty of Concordia) に署名して島を二分した。もっとも、その後も領土紛争は絶えることはなく、1648年から1816年にかけて境界線の変更は16度も生じている。現在の境界線が確定したのは、1815年のパリ条約である。 島にはアフリカから多くの奴隷が移入された。最初に島へ奴隷を連れてきたのはスペイン人たちであったが、砂糖のプランテーション栽培が拡大すると、移入され労働に従事させられた奴隷の数は膨大なものとなった。1848年7月12日、フレンチ・サイドで奴隷制が廃止された。
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