ルフス裁判
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「プブリウス・ルティリウス・ルフス」の記事における「ルフス裁判」の解説
ローマに帰国後、ルフスは略奪罪で告訴された。この裁判は紀元前92年に行われたとされている。 この裁判の理由や、なぜスカエウォラではなくルフスが被告になったのかについては、さまざまな意見がある。古代の歴史家たちは、ルフスが告訴されたことは元老院階級と騎士階級との闘争における、重要な出来事の一つと考えている。この説に従えば、地方の財政を合理化しようとした元老院と、収奪の継続に興味を持った騎士階級の衝突であり、告発者は自分たちの能力を誇示したかっただけだと示唆される。この場合、高貴な一族に属するスカエウォラよりも、ノウス・ホモ(先祖に高位官職者のいない新人)であるルフスの方が攻撃の対象としては都合が良かったのである。他の説では、元老院内の様々な派閥間の争いが原因とする。おそらくマリウス派はルフスはメテッルス派に属すると見て一撃を与え、独自の姿勢をみせていたスカエウォラには手を出さなかったのだろう。またアシア属州から利益を得ていた元老院議員が結束した可能性もある。その中にはマルクス・アエミリウス・スカウルス、マニウス・アクィッリウス (紀元前101年の執政官)、またガイウス・マリウス本人も含まれる。 この裁判の影響は大きかった。キケロは「ローマ全体を震撼させた」と述べている。告発したのはアピキウスという人物で、浪費家として知られていた。当時ルキウス・リキニウス・クラッススとマルクス・アントニウス・オラトルという最高の弁論家がいたが、ルフスはどちらにも弁護を依頼せず、自分で自分を弁護することを選んだ。ただ、甥であるガイウス・アウレリウス・コッタとスカエウォラのみが、短い演説を行った。ルフスはローマの慣習に反して、法廷の前で髪と髭を生やしたり、裁判官に同情しようとしたりしなかった 。単なる誹謗中傷であることが明白であったにもかかわらず、裁判官はルフスに追放と財産没収を宣告した。ルフスはまずミュティレネに向かい、やがてスミルナに住み、そこで紀元前78年にキケロと会っている。 一部の歴史学者はルフスがすぐにスミルナに来たと書いているが、これは間違いのようである。ルフスが略奪したとされる属州では、彼を勝利者として迎え入れた。ルフスはスミルナの市民権を得る。後にマリウス派に勝利したルキウス・コルネリウス・スッラがローマへの帰還を申し出るが、ルフスはこれを拒否した。 ほとんどの歴史家は、ルフスの追放がローマの運命に深刻な結果をもたらしたことに同意している。元老院議員階級の何人もが、裁判所の改革を含む改革プログラムを進めた。元老院階級と騎士階級の対立と見れば、この裁判は騎士階級の人物が著名な元老院階級の人物を有罪とした最初の裁判であることが注目される。一方で元老院内の対立と見れば、これはメテッルス派への打撃であった。翌年の護民官でルフスの甥であるマルクス・リウィウス・ドルススが成立させた法案は、元老院全体からとしても、その一部からだとしても、これに対する報復であった。この改革は騎士階級から300人を元老院に組み入れ、代わりに陪審員を全員元老院議員とする説と、陪審員を元老院と騎士階級に公平に分配するものとの説があるが、告訴の可能性があったスカウルスも法案作成に関与していた。何れにせよ、改革の失敗が同盟市戦争につながっていく。 一方で、元老院は、騎士階級をなだめるためにルフスを犠牲にしたとの見方もある。従って、この裁判は司法改革に大きな影響を与えなかったとするものである。最後に、元老院議員自身がルフスの有罪判決に導いたのかもしれない。この場合、ルフスは元老院では完全に孤立しており、その後の司法改革に何の影響も与えなかった。ただ、後世の作家、特にキケロの著作によって、ルフスの裁判が重要なものとみなされるようになった。
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