アウグストゥス治世下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:48 UTC 版)
プトレマイオス朝エジプトを滅ぼしたのち、アウグストゥス治世下の頃、ローマ経済において交易ルートのインドへの拡大が必要とされ始めていた。ローマ・インド間で交易するにあたり、アラビア人が交易の海上ルートをコントロールしていることがローマの交易活動に対して大きな障害となっていた。それゆえ、プリンケパトゥスとしてのアウグストゥスの最初の海上軍事作戦の一つとしてアラビア半島遠征が挙げられる。当時のローマのエジプト統治における高官Aelius Gallusは、アラビア遠征の下準備として130隻の輸送船団を設立し、それをもって10,000人の軍団をアラビア半島に輸送した。しかし半島に集結したローマ軍団はイエメンまでの広大な砂漠の中を行軍しようとしたものの失敗し、アラビア半島を勢力下に収めるという当初の作戦を放棄せざるを得なかったという。 一方その頃、エジプトから見て帝国の向こう側、ゲルマニア地域においてもローマ海軍は軍団兵の輸送・補給物資の運搬といった重要な役割を果たしていた。紀元前15年、ボーデン湖に独立した新たなローマ艦隊が配備された。後々、大ドルススやティベリウスといったローマ将軍がエルベ川方面に侵攻する際にこの艦隊を用いたという。紀元前12年、ガリアの地で軍務に就いていた将軍大ドルススは1,000隻の新たな軍船の建設を命じ、その艦隊と共にライン川に沿って北上し北海まで進軍した。北海沿岸に居住していたゲルマン人部族は大ドルススが率いてきた大軍のローマ軍団に対し、数的にも戦術的にも技術的にも太刀打ちできず、ローマ艦隊がヴェーザー川・エムス川河口に集結した頃には、現地部族たちはもはやなすすべはなく、ローマに降伏せざるを得なかったという。 紀元前5年、ティベリウス将軍のエルベ川方面への侵攻により、ローマ人はより多くの北海・バルト海の知識を得た。プリニウスはローマ艦隊がどのようにヘルゴラント島、そしてデンマーク半島北東部に進出したのか述べている。また、アウグストゥス自身も自身の著神君アウグストゥスの業績録にこの遠征について記している。: My fleet sailed from the mouth of the Rhine eastward as far as the lands of the Cimbri to which, up to that time, no Roman had ever penetrated either by land or by sea...".以上の複数のゲルマニア北部に対するローマ艦隊海上遠征は、紀元後9年、ローマ軍の大敗に終わったトイトブルクの森の戦いののち、中止・放棄された。
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