アウグストゥス死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/10 03:31 UTC 版)
アウグストゥスの死によって父ティベリウスが元首に就任すると、パンノニアとゲルマニアで軍団の騒乱が発生し、これを鎮圧するためドルススはパンノニアへ派遣された。ゲルマニアについては現地でその指揮をしていた義兄弟ゲルマニクスが担当した。パンノニアの軍団はその司令官クィントゥス・ユニウス・ブラエススに賃金の上昇と退役年数の引き下げを要求し、各冬季陣地を離れ3個軍団が一箇所に集合していた。このときドルススには親衛隊2個大隊と騎兵隊、それに幕僚としてルキウス・アエリウス・セイヤヌス、グナエウス・レントゥルス、ルキウス・アプロニウスなどが与えられていた。パンノニアに到着したドルススは最初、兵士たちと交渉してティベリウスに使者を派遣したが、兵士達の動揺を見て取ると厳罰で対処し、使者の帰還前に叛乱を鎮圧した。軍団に対して一切の妥協を与えぬ解決であり、鎮圧後すぐにローマに戻った。 15年に予定通り同僚ガイウス・ノルバヌスとともに執政官に就任し、自らとゲルマニクスの名で剣闘士試合を開催した。 17年から、マロボドゥス率いるスエビ族とアルミニウスを戴くケルスキ族の対立の調停のためにイリリクムに派遣された。このイリリクムの任務で、19年の夏にはマロボドゥスをローマへの亡命に導く成果を挙げ、元老院で小凱旋式の決議を得た。またこの年に妻リウィッラとの間にティベリウス・ゲメッルスとゲルマニクス・ゲメッルスの双子が誕生している。 同じ年に、義兄弟で元首の後継者競争の相手でもあったゲルマニクスがシリアで急死する。ドルススもゲルマニクスの遺骨を迎えるため任地を離れ、一旦ローマに戻った。ドルススとゲルマニクスの周囲は後継者争いのため2つの陣営に分かれていたが、義兄弟同士の仲は良く、ドルススはその死を悼んだ。ゲルマニクスの遺骨を持ってその妻大アグリッピナがローマに着いたときには、すでに紀元20年になっていた。 ゲルマニクスの葬儀終了後、再びイリリクムで任務に戻り、終了後ローマに戻ると、凱旋式の前に予定執政官としてゲルマニクス暗殺の容疑を持たれていたグナエウス・カルプルニウス・ピソの裁判に臨んだ。ピソの自殺後、改めて小凱旋式を挙行した。このころ母ウィプサニアが死去している。 同じ年にはドルススの長女リウィア・ユリアとゲルマニクスの長男ネロ・カエサルが結婚している。
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