アウグストゥスの隷下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 17:12 UTC 版)
「ルキウス・ムナティウス・プランクス」の記事における「アウグストゥスの隷下」の解説
オクタウィアヌスは紀元前29年よりプリーンケプス・セナートゥースの称号を得ていたが、紀元前27年1月16日、アウグストゥスの称号をも得た。 紀元前22年、アウグストゥスはプランクスとパウッルス・アエミリウス・レピドゥスを監察官(ケンソル)に任命した。彼らの監察官時代は、何かをなしたという理由ではなく、これが実質最後の監察官であったということで有名である。ウェッレイウス・パテルクルスの『ローマ世界の歴史』では、これは双方の監察官にとって恥ずべきことであった。 . . . プランクスとパウッルスの監察官業務は、まるで両者の不和を試すようなもので、彼らの名誉をあげるものではなく、またローマに何かの利益をもたらすものでもなかった。一人には力が無く、もう一人はその性格のため、監察官業務を円滑に行うことは難しかった。パウッルスは監察官としての能力がほとんど無く、他方プランクスはそれを恐れる理由が多々あり、また若い同僚と常に争っていた。 . . . スエトニウスの『皇帝ネロ伝』 には、ネロの祖父であるキウス・ドミティウス・アヘノバルブスはアントニウスの娘大アントニアと結婚していたが、傲慢で、贅沢で、残酷であり、アエディリス(按察官)にしか過ぎなかったときに、プランクスに道路上で会った際に、監察官プランクスに道を開けさせたと書かれている。この話は、監察官任期完了後のプランクスの評判が悪かったことを示している。
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