ローマ支配下のエジプト
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「エジプトの歴史」の記事における「ローマ支配下のエジプト」の解説
詳細は「アエギュプトゥス」を参照 アウグストゥスは、独裁政の秘薀の一つとして、元老院議員や上級ローマ騎士が無許可で立ち入ることを禁止するという手段を使って、事実上、エジプトを自分のものにしておいた。「誰にせよ、この属州を占領し、陸と海との鍵を握ってしまうと、たといわずかな守備でも、莫大な軍勢に対抗できて、イタリアを飢でおびやかすことができよう」と心配したからである。 -コルネリウス・タキトゥス『年代記』第2巻§59 ローマ帝国の東方諸属州はヘレニズム時代を通じてギリシア語による行政や知識活動が活発に行われていた地域であり、ローマ領に組み込まれてもギリシア文化がその基調となっていた。この状況はアエギュプトゥス(以下、エジプト)でも同様であり、ローマは先行するプトレマイオス朝の行政的伝統を踏襲した。無論なんの変化も無かったわけではなく、ローマ人たちは現地の富裕層を育成して徴税や治安維持を担わせ、財政的負担を軽減するために、社会的なコミュニティの再編などを行ったと見られる。 アウグストゥス(オクタウィアヌス)はエジプト征服直後、初代エジプト総督(praefectus Aegypti)を元老院議員ではなく、遠征軍に同行していた騎士身分(エクィテス)であったガイウス・コルネリウス・ガッルス(英語版)とした。以降、エジプト総督位は属州総督の中でも特殊な位置を占めた。ローマの属州総督位の多くは元老院身分に委ねられており、一時的に騎士身分の総督が任命されるのは小規模属州に限られていたのに対し、エジプト総督位はその属州の規模にもかかわらず長期にわたり騎士身分の総督が任命され続けた。さらにエジプトには3個軍団、および歩兵9個大隊、騎兵3個大隊からなる補助軍とアレクサンドリア駐留艦隊が配置され、伝統的に独立志向の強かったテーベを中心とする上エジプトの反乱も属州設置後、速やかに鎮圧された。 古代ローマの歴史家コルネリウス・タキトゥス(120年頃没)によれば、アウグストゥスは特に重要な属州であったエジプトの支配権を独占するために元老院議員と上級の騎士身分(senatoribius aut equitibus Romanis inlustribus)の者が許可なくエジプトに立ち入ることを禁じていたという。アウグストゥス治世下ではさらに、プトレマイオス朝末期に比べエジプトの交易活動も多いに活発化し、アレクサンドリアはローマ帝国の南方貿易の中心となった。当時のエジプトでは紅海沿岸のミュオス・ホルモス港からだけでも120の船がインドへ向けて航海し、また東アフリカ地方まで進出して多くの交易品を持ち帰った。当時のエジプト(ローマ)の対外交易に関わる史料として特に著名なものに、『エリュトラー海案内記』がある。これはエジプト出身と言われるギリシア人が当時の紅海、アラビア海の航海について記したもので、ここに記された古代インドとの間のエジプト(ローマ)の交易の隆盛はインド側での考古学的証拠によっても証明されている。また、エジプトにおいてもオクシリンコスで発見されたパピルス文書から発見された著者不明の喜劇作品の中にインドで使用されていた(文法的には不完全ながら)カンナダ語の台詞が登場するものが発見されており、エジプトの一部においてインドの言語が理解されていたことが示されている。これらもエジプトとインドとの間の貿易活動の活発化を反映したものであろう。 エジプトはローマの属州の中でも屈指の利益をもたらし、ユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスによればエジプト属州から得られる1か月分の歳入はユダエア属州の1年分の歳入を凌駕したと伝えられる。同じヨセフスの記録によれば、ローマ市の穀物消費量の3分の1に相当する穀物がエジプトから供給されていたという。ローマへの主たる穀物供給元はエジプトの他に最も重要な北アフリカ、そしてシチリアがあったが、帝政初期に頻発した飢饉や内乱を通じてエジプトの穀物は重要な位置を占め、ローマにおけるいかなる権力闘争においてもエジプトと北アフリカを掌中に収めることができるかどうかが重要であった。エジプトの穀物はまたローマ市以外の東方諸属州にとっても無くてはならないものであった。エフェソスやユダエアなど、多くの属州・都市が領内での食料不足に対してエジプトを頼った。
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