ローマ支配下のアルモリカとは? わかりやすく解説

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ローマ支配下のアルモリカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 14:42 UTC 版)

アルモリカ」の記事における「ローマ支配下のアルモリカ」の解説

ローマ帝国時代アルモリカは、ルグドゥヌム(en現在のリヨン)を首都とするローマ属州ガリア・ルグドゥネンシス一部であった4世紀属州再編されると、アルモリカはルグドゥネンシスの第2および第3区分下におかれた。ローマ皇帝ウァレンティニアヌス1世時代370年、トラクトゥス・アルモリカヌス・エト・ネルウィカヌス(Tractus Armoricanus et Nervicanus)という軍監当局正式に設置された。この機関海上からの脅威備えジロンド川からブローニュまでの沿岸監視行っていた。 帝国全ての部分同じくローマ人地元エリート階級中に彼ら独自の文化採用した政策広めたローマ市民権獲得社会進出機会手に入れるには、ラテン語習得ローマ税法受け入れる必要があった。 確かに帝国最盛期アルモリカ経済増加した人口発展し、完全にローマ帝国一部となっていた。しかしアルモリカにおけるローマ化は、残されラテン語碑文わずかだったことが示しているように、限界があった。文化人類学研究では、当時アルモリカ住民ローマ支配下でも純粋なケルト語の名を持っていたことが明らかになっている(Moricus、Smertulitanus、Rextugenos、Vertrosなど)。 ローマ人アルモリカ征服根本的に社会構造変えることはなかった。都市比べればその外では、他種族であるローマ人少数派でしかなく、ラテン語普及しなかった。アルモリカキリスト教伝道されたとき、先住民はまだ非常に強力に彼らの祖先文化つながっていた。ローマ化関係した技術発展議論余地がないにもかかわらずアルモリカ住民は反教会派大部分占めていた。 ゲルマン系海賊攻撃から半島防衛するため、ローマ支配層が島嶼部住民からなるローマ軍団召還したあと、および海賊襲撃から逃れるためブリトン人たちが移住始めたのち、ブリテン島の西にあるアイルランドヒベルニア)に植民試みられた。そしてアルモリカの海側の一部はブリタンニア・ミノール(Britannia minor小さなブリタンニア)、その後単にブリタンニア、すなわち現在のフランス語名ブルターニュ呼ばれるようになった407年ローマ軍団撤退した後、地元エリート階級公民行政官追放したアルモリカ430年代440年代反乱起きたローマ化したアルモリカ住民支配者側を追い出した451年カタラウヌムの戦いでは、ローマフラウィウス・アエティウス将軍西ゴートテオドリック1世率い連合軍が、フン族の王アッティラ率いフン族連合軍粉砕した6世紀東ローマ帝国官僚ヨルダネスは、アエティウス同盟者としてアルモリカの者たちやその他ケルトまたはゲルマン諸族が含まれていたとしている。

※この「ローマ支配下のアルモリカ」の解説は、「アルモリカ」の解説の一部です。
「ローマ支配下のアルモリカ」を含む「アルモリカ」の記事については、「アルモリカ」の概要を参照ください。

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