エジプト統治
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「イヴリン・ベアリング (初代クローマー伯爵)」の記事における「エジプト統治」の解説
1883年9月にエジプト総領事(英語版)に任命された。エジプトはいまだ形式的には独立国だったが、実際にはイギリスの総領事たる彼が副王以下エジプト政府を傀儡にして、重要な政策を全て取り決めるようになった。 ベアリングが抜擢した英国人(主にインド総督府勤務経験者)で構成されるエジプト統治チームが、エジプト各省庁、エジプト軍部、エジプト警察署などに配置され、エジプト行政を操縦した。彼らと6000人のエジプト占領イギリス軍、そしてエジプトに進出しているイギリス商社の存在によってエジプトは諸外国から大英帝国植民地と認識されるようになった。 事実上の「エジプト総督」であるベアリングは財政改革・税制改革・農業振興によって破たん状態のエジプト財政を立て直しに努め、1896年までには歳入が歳出を100万ポンド上回る黒字状態にした。また強制労働制度を廃止したり、英国流の司法・行政改革を行ったり、大規模な土木・灌漑工事を実施したり、首都カイロの都市改造を行ったりもした。 一方で他の大英帝国植民地総督と同様、被支配民に教育を与えようとはしなかったし、自治のための準備もしなかったため、現地民の支持を得ることはできなかった。エジプトの歴史家の間でも彼の統治については「エジプト人を対等の人間として扱わなかった」(アリ・バラカート教授)、「英国にとって利益となる農業振興のみを重視し、工業化を阻害し、教育などを軽視した」(アファフ・ルトフィ・アッ・サイエッド・マルソー教授)といった批判的評価が多い。 ベアリングの統治後半には反英的なエジプト民族主義が高まりはじめた。とりわけ1906年のデンシャワイ事件(英語版)によってそれが顕著となった。 この事件は本国の自由党政権にも問題視され、また健康状態も悪化していたため、彼は1907年3月をもってエジプト総領事を辞することにした。彼のエジプト統治期間は実に4半世紀にも及んだ。 ベアリングは、エジプト総領事在任中の1892年にクローマー男爵、1899年にクローマー子爵、1901年にクローマー伯爵の爵位を受け、貴族院議員に列している。
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