古代エジプト美術
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ギリシアの哲学者プラトンが、「エジプト美術は10000年を経ても変わっていない」といっているように、エジプト文明は保守的、伝統的とされていた。エジプト美術は宗教、特に死後の世界との接点が多く見られる。人々は死後、魂が再びミイラや像を通して住めるようにと、作られたという。同じ流れで死後の墓、神々に捧げる神殿などには堅牢な石造で粋を凝らす一方、現世の人々の住む住居は葦や日干し煉瓦造りの粗末な物であった。朽ちにくい石造には永遠性への観念が込められていた。古代エジプト人ほど「永遠」という言葉を好んだ民族はないといわれる。「太陽のごとく永遠に」、「永遠永劫に」、「永遠の生命、健康、富」 といった言葉は繰り返し墓所内に刻まれた。
平面芸術(絵画、レリーフ等)
エジプトの絵のスタイルは、約2500年もの間、ほぼ同じスタイルで描かれ続けてきた。大きな特徴は、正面を向いた胴体に、横向きの顔と両足という固定したスタイルである。この特徴性のため誰にでも「エジプト風」と分かるほどである。このような直立し、凝固したようなポーズはファラオの神々しい姿を表し、描かれている。「静」の美は古代エジプト人の美意識の中心をなすもので、永遠性と結びついていた。
技法的には、岩山を穿って築いた墳墓の壁画などは表面処理を施してから更に漆喰を下地としてその上に描く方法が一般的であった。顔料は鉱物性の粉末を玉にし、使うときにはこれを砕き、少量のゴムを混ぜた水に溶かして描く。主色はオーカー系の赤・黄・褐色で青・緑系は酸化銅から、黒は煤から作られた。彫りやすい石灰石質であれば浮き彫りを施すこともあるが彫刻工ではなく画工が担当し、二つの職は明確に分けられていたようである。
主なルール
時代によって若干変化するが、複数の人物や神々が描かれる際には一定のルールが存在する。
- 頭や胴体、足は一定の比率で描く。
- 地位の高い人物は、より大きく描く。
- 顔は横顔とするが、目は正面を向いて描く。
- 肩、胸、腕は正面を向けて描くが胴体と足は横向きとする。
- 足は左右の区別が付くように描き分けない。土踏まずを描く場合には、両足に描く。
- 遠近法を使わないが、集団を描くときには上下左右にずらして、少しずつ重ねて描く。
立体芸術(彫刻)
絵画のように平面に転写するという過程を踏まず、直接的に伝わる表現が出来るため比較的写実性に即した物になっている。この場合でもあまり動的な物は好まれない。また、型(フォルム)に嵌ったような作品が多いのも特徴で、個性というものが薄く均一な印象を与えるが、これは多くの物と比べてみたときに顕著である。
立体芸術のなかで一番有名なのはツタンカーメン王の黄金の仮面であろう。これは純金の打ち出しで出来ていて贅沢の粋を凝らした物といえる。ツタンカーメンは19歳の若さで亡くなっており歴史上、あまり大きな業績を残してはいない。しかし、他のファラオの墓はほとんど盗掘されてしまっているのに対し彼の墓は完成以来ほとんど破損がないので、今では最も有名かつ貴重なエジプト遺産となっている。
アマルナ様式
新王国第18王朝のファラオ、アメンホテプ4世は伝統の多神教アメン信仰を廃して一神教のアテン神を立てるという宗教改革を断行した。これをアマルナ宗教改革と呼ぶ。
その信仰の証として自らアクエンアテン(「アテンに愛される者」の意、イクナートン)と名乗り、自身の姿を奇形に描かせるなど芸術上でも変化を誘導した。この流れに沿った様式はアマルナ様式と呼ばれ、人物の柔弱さ、人間的な叙情性、細かな装飾性が特徴である。
ツタンカーメンはアクエンアテンの後継だったため、彼がアテン信仰からアメン信仰に戻したファラオだったにも関わらず王家の谷にある墓からはアマルナ様式のものが多く出土。同王の墓から出土の黄金の玉座はアマルナ様式をよく表し、王と妃を表した人物の体格は家庭的な柔らかさがある。
アマルナ改革は急進的すぎたせいもあり神官達の猛反発を受けて結局挫折し、新しい様式もエジプトの伝統と乖離しすぎていたため一時限りのものに終わった。
参考文献
- 講談社世界美術大系 第2巻『エジプト美術』
- ナイルの遺産 エジプト歴史の旅(屋形禎亮 監修、山川出版社):描写のルールの項について
外部リンク
エジプト美術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 18:17 UTC 版)
詳細は「エジプト美術」および「アマルナ美術」を参照 ナイル川流域で興ったエジプト文明は肥沃な大地を背景に大いに発展し、初期王朝時代にはエジプト美術の原型が誕生した。エジプト美術の初期はメソポタミア美術(英語版)の影響を受けたと考えられている。初期は蛇王の碑などに代表される浮彫彫刻や丸彫彫刻がさかんに制作され、既に技術、様式においてエジプト美術の独自性の原形が垣間見える。 ファラオの神権的権力が確立する古王国時代には葬祭複合体として古代史においても重要な建築物であるピラミッドがギザなどに建立された。なお、従来の墳墓(マスタバ)の概念を取り払い、ピラミッドとして確立を見たのはジェセル王の時代であり、宰相イムヘテプによってサッカラに建立された階段ピラミッドがその嚆矢とされている。壁画においてはメイドゥームの鴨(英語版)など、動植物には写実的で精微な表現を有したものが数多く制作されているのに対し、人像表現は極めて形式的かつ概念的で、上半身は正面向き、下半身は真横からといった形態で表現されていることが多い。これは、魚や鳥は死者の食料としての役割を担っており、生きの良さが重要だったのに対し、表された人々は王侯に奉仕する労働力として永遠不動の形を要求するというエジプト独特の信仰から来る表現の違いであると推察されている。 中央集権が瓦解し、中王国時代に入るとアメンエムハト3世の時代に入るまで巨大建造物の造営は見られなくなり、代わってオシリス柱やハトホル柱など、独創的な形式を有する葬祭殿や神殿が出現した。彫刻においては第11王朝期ごろから個性を写実的に捉える傾向を持った新しいテーベ様式が出現し、従来の伝統的なメンフィス様式とともに二大潮流を形成した。しかしながら経済の停滞とともに制作傾向は大型石像彫刻から木製の小像へと変化している。 新王国時代に入ると王権の強化とともにエジプト美術は絶頂期を迎え、アモン大神殿やルクソール神殿など、テーベを中心に各地で大型の造営事業が推進された。とりわけ、第18王朝期には従来の二大潮流の中に豪華な装飾性と色彩主義が加えられ、宮廷美術の新境地を切り開いた。 また、アマルナの地に都を移したアメンホテプ4世が唯一神アトンへの信仰に没頭したことから、この時代に制作された美術作品は自然主義的な傾向が色濃く反映されており、エジプト美術のなかでは異彩を放っている。宮廷美術として型にはめられ、厳格な形式性から解放されたことから、リアリズム表現の技法が大いに伸張した。王女に口付けをするアメンホテプ4世の彫刻画など、人間の感情や情愛をモチーフとした構図が採用され、表情や姿態に誇張的な表現がとられた。 この時代の美術をそれ以外の時代のエジプト美術と区別し、アマルナ美術と呼称する。アマルナ美術は後世のエジプト美術にも大きな影響を与え、ツタンカーメンの黄金マスクなどにおいても、アマルナ美術の内観的な表現様式の名残が見て取れる。 エジプト美術の最大の特徴はその様式の不変性で、三千年に及ぶ悠久の時を経てもほぼ変わることなく一貫していることが挙げられる。こうして連綿と継承された技術はその洗練性を高め、後期には沈浮彫りなどの高度に発達した特殊な技法が誕生している。一方でこうした不変性は社会的・歴史的基盤があって初めて成立する特殊な美術であったこともまた事実であり、ギリシア美術のような影響力を他の美術に与えることはなかった。しかし、末期王朝時代に入ると王国の衰退とともにエジプト美術も因襲的な模倣に終始し、他国からの影響を受けながらその独自性すら失っていった。紀元前332年、アレクサンドロス3世によってエジプト征服がなされると、エジプト美術は形骸化し、ギリシア美術の影響の中に消えていった。
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