末期王朝時代
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「メンフィス (エジプト)」の記事における「末期王朝時代」の解説
第3中間期と末期王朝時代の間、エジプトの現地人の王朝はしばしば、メンフィスを舞台にクシュ人やアッシリア人、ペルシア人のような外国の占領者に対する独立運動を行った。 クシュ人の支配者ピアンキによるエジプトの征服の後、第25王朝が成立した。その王座は遥か南のナパタ(英語版)に置かれていた。このピアンキのエジプト征服はゲベル・バルカルのアメン神殿にある勝利の碑文に記録されている。彼はメンフィスの占領に続き、リビア人の支配下では無視されていた神殿と信仰の復興を図った。彼の後継者はプタハ神殿の南西角に礼拝堂を作ったことが知られている。 まもなくアッシリアがエジプトに侵攻を始めると、メンフィスはその脅威によって引き起こされた混乱の中心となった。クシュ人の王タハルカ(英語版)の下、この都市はアッシリアに対する抵抗の前線基地となったが、タハルカがヌビアへ追いやられるとすぐに瓦解した。アッシリア王エサルハドンは幾人かのエジプト人の君侯達の支持を得て、紀元前671年にメンフィスを占領した。彼の軍隊はこの都市で激しい略奪を行い、住民を虐殺してその頭で塚を作った。エサルハドンは膨大な戦利品を携えて自身の首都ニネヴェへ帰還し、タハルカの王子を鎖に繋いだ図像と共に戦勝記念碑(英語版)を建てた。エサルハドンが去った直後、エジプトではアッシリアの支配に対する反乱が発生した。 アッシリアではアッシュールバニパルが彼の父エサルハドンの王位を継承し、エジプトに対する再度の攻撃を行った。紀元前664年の大規模な侵攻でメンフィスは再び占領され略奪された。クシュ人の王タヌトアメンは敗北しヌビアまで退却した。この結果エジプトにおけるクシュ人の支配は完全に終わりを告げた。その後政権はエジプトにおけるアッシリアの協力者であった第26王朝(サイス朝)の手に入った。このことはアプリエス(英語版)王によって建設された宮殿によって証明される。アッシリア滅亡後には、彼らはバビロニア人による侵略を恐れこの都市を再建し強化した。 エジプトとメンフィスはペルシウムの戦い(英語版)の後、紀元前525年にカンビュセス1世によってアケメネス朝の支配下に入った。ペルシア人の下、メンフィスは新たなサトラップ(総督)の駐在地として保護され強化された。恐らくアプリエス王の豪華な宮殿に隣接する都市北側の大きな周壁付近にペルシアの守備軍が都市内に無期限設置された。フリンダーズ・ピートリーの発掘でこの地区には武器庫が存在していたことが明らかになっている。ほぼ1世紀半の間、この都市はアケメネス朝(ペルシア)のエジプト(ムドラーヤ/ムスラーヤ)属州の首都であり続け、アケメネス朝によって征服された広大な領土の商業的中心となった。 支配者によって発注され、サッカラのセラペウムで聖牛アピスに捧げられた石碑は、この時代の出来事を理解するための重要な鍵を提供している。末期王朝時代、聖牛の遺体を埋葬するためのカタコンベの大きさは徐々に大きくなり、エジプト全土、特にメンフィスとそのネクロポリスにおけるアピス信仰の拡大を示す記念碑と言うべき様相を呈した。この中にはカンビュセス2世によって捧げられた物も含まれ、この事実は彼が征服者として神聖な伝統に対して敬意を払わなかったというヘロドトスの証言への反証となっているように見える。 紀元前404年、勢力を拡大したアミルタイオス(英語版)によって現地人による王朝が再建された。彼はペルシア人の支配を終わらせたが、紀元前399年にはネフェリテス1世(英語版)によって打ち破られメンフィスで処刑された。この処刑はアラム語のパピルス文書に記録されている(ブルックリン・パピルス13番)。ネクタネボ1世は第29王朝を打ち立てた。ネフェリテス1世は首都をデルタ地帯東のメンデス(英語版)に遷したため、メンフィスは政治的中枢としての地位を再び喪失した。しかしその宗教、商業、そして軍事上の重要性は維持され、ペルシアによる再度のエジプト征服の企てに対抗するために重要な役割を果たした。 ネクタネボ1世の下で、全土の神殿で大規模な再建計画が開始された。メンフィスではプタハ神殿に力強い新たな外壁が再建され、その内部には神殿と礼拝堂が建設された。ネクタネボ2世は前任者の仕事を継続しながら、大規模な聖域の建設を始めた。特にサッカラのネクロポリスの物は、ピュロン、像、スフィンクスが並ぶ舗装道路で装飾されていた。しかしペルシア人による再征服を阻止しようとする彼の努力も空しく、紀元前343年の大規模な侵攻においてペルシウムで敗北した。ネクタネボ2世はメンフィスの南に後退し、アルタクセルクセス3世によって包囲されると上エジプトに逃走、最終的にはヌビアに逃げ込んだ。 反逆王カババシュ(在位:紀元前338年-紀元前335年)の下でメンフィスは束の間の間解放された。このことはサッカラで発見された治世第2年のカババシュの名前を伴う聖牛アピスの石棺によって証明されている。最終的にはダレイオス3世の軍勢がこの都市の支配を取り戻した。 メンフィスは第3中間期の間に侵略者による支配と反乱による解放を繰り返し経験した。数度の包囲戦はこの国の歴史の中でも最も凄惨な場面となった。ギリシア人の同盟者の支援を受けてアケメネス朝の支配に対抗した。にも拘らずエジプトは征服者の手に落ち、以後メンフィスが国家の首都となることはなかった。紀元前332年、ギリシア人が到来すると彼らはペルシア人からこの国の支配権を奪い取った。
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末期王朝時代
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詳細は「エジプト第3中間期」および「エジプト末期王朝時代」を参照 新王国の統一が崩れた後のエジプトでは南部(上エジプト)でアメン神殿が支配的な地位を維持する一方、北部(下エジプト)ではタニス(第21王朝)、ブバスティス(第22王朝)などの王朝が、アメン神殿と協調し、あるいは対立しつつ支配を維持した。この中で存在感を増していたのが新王国時代末以来西方(リビュア、リビア)から移入していたリビュア人である。エジプトに移入したリビュア人の首長家系に生まれたシェションク1世は前946/945年に王位につき第22王朝を建設した。以降のエジプトは外国からの移入者たちや、外部から侵入した帝国による王朝に支配された。第22王朝はアメン神殿を抑え、パレスチナ地方へもイスラエル王国とユダ王国の内紛に乗じて積極的な遠征が行われている。その後、第23王朝を始めとした複数の王家が割拠し、権力の分散が進んだ。前9世紀にはエジプトが分裂する一方で東方ではアッシリアがオリエント世界最大の勢力として台頭するようになり、南方ではエジプトの文化的影響を強く受けたヌビアがエジプトに手を伸ばした。 ヌビアではエジプト新王国が撤収した後、ナパタを中心に強力な王国が編成されていた。これはクシュ王国、あるいはヌビア王国と呼ばれ、その歴史を前期と後期に分けて前期をナパタ王国(前900年頃-前300年頃)、後期をメロエ王国(前300年頃-後350年頃)ともいう。ヌビア人たちは分裂したエジプトの諸王国を短期間のうちに平定し、前732年頃にはその支配者ピアンキ(ピイ)が上下エジプトの王として即位した(第25王朝)。ヌビア人たちはエジプトの伝統的な規範を踏襲し、古い王家も「知事」としてその実権を奪うことはなかったが、この残存した現地勢力は後の離反の種となった。前671年、ヌビアに続いてアッシリアがエジプトに侵入した。アッシリア王エサルハドンはメンフィスまで進軍してヌビア軍を追い払い引き上げた。前667年には次の王アッシュールバニパルが再びエジプトを席捲し、前663年までにテーベを陥落させてヌビア人の勢力を完全にエジプトから駆逐した。アッシリアはサイスの王家にエジプトを支配させたが、間もなくアッシリア自体が王位継承争いによって弱体化した。アッシリアの傀儡であったサイスの王家はアッシリアの弱体化を察知し、前7世紀半ば頃にアッシリア軍をエジプトから追い払い独立した王朝を成立させた(第26王朝)。 アッシリアは前609年には新バビロニアとメディアの離反によって滅亡した。エジプトはアッシリア亡き後のオリエント世界において新バビロニア、メディア、リュディアと並ぶ強国として君臨した。この時代に、主に傭兵として、また商人として、多数のギリシア人がエジプトに定着した。ギリシア人の歴史家ヘロドトスは、このエジプトに定住したギリシア人から当時のエジプトについて多くの情報を得ている。ギリシア人との関係をはじめとして、第26王朝時代は従来以上にエジプトが地中海世界との結びつきを強めていった時代であり、この時代からを末期王朝時代とする場合が多い。 新バビロニアやメディアなどのオリエントの諸大国は、前6世紀後半の間にイラン高原に新たに興ったハカーマニシュ朝(アケメネス朝)によって全て征服された。この王朝はペルシア帝国ともいわれ、エジプトも前525年にはその王カンブージャ2世(カンビュセス2世)によって征服された。この最初のペルシアによる支配を第27王朝(第1次ペルシア支配時代)と呼び、ハカーマニシュ朝が定めた度量衡や公用語としてのアラム語の導入が行われたが、原則的はその王たちは伝統的なエジプトの支配体系を尊重した。その後ハカーマニシュ朝で内紛が発生するとエジプトではサイスで反乱を起こした王たちが前404年に独立王朝を立て60年程度エジプトの自立を維持した(第28、第29、第30王朝)が、前343年にはハカーマニシュ朝によって再征服された(第31王朝)。
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末期王朝時代
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末期王朝時代、クフの名前をもつ多数のスカラベが、恐らく何らかの幸運のグッズとして民衆に販売された。30個以上のスカラベが現存している。イシス神殿では、イシス神官の紀元前670年から紀元前488年までの家系図が展示されている。同じ時代、クフと彼の妻ヘヌトセンを指し示す有名なInventory Stela(英語版)が登場する。だが、現代のエジプト学者はこの時点でクフが依然として王家の祖先として崇拝されていたかどうかには疑問を呈する。彼らはクフが既にイシス神殿の歴史の単なる象徴的要素として見られている可能性が高いと考えている。
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