第22王朝
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「カルナック神殿複合体の歴史」の記事における「第22王朝」の解説
第22王朝(紀元前945-715年頃)のリビアの王たちは、列柱および新しい門(それは第1塔門へと後に置き換えられている)とともに第2塔門区域の配置を計画したとみられる。この新しい構成は、セティ2世とラムセス3世の聖舟祠堂を取り囲んだ。この後、神殿と第2塔門の間にシェションク1世(紀元前945-924年頃)はブバスティス門を建造することにより、シリア・パレスチナにおける自身の征服と軍事行動を記念した。
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第22王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:35 UTC 版)
第21王朝のプスセンネス2世の後は、リビア人傭兵のシェションク1世が継いだ。ここで、彼は革新的な政治的行動をする。息子イウプトをアメン大司祭につけ、アメン神殿の仕組みを通してエジプト全土を一人の支配下に置こうと画策したのである。さらに、イプウトは「軍の最高司令官」の称号を併せ持ち、軍をも統率した。加えて、アメン第3司祭・第4司祭、ヘラクレオポリス軍司令官にも血族を任命するなど、確固たる政治的基盤を築いた。これは第18王朝などの王がしたような、王自身が専制的な君主として絶大な権力を持った方法と対照的であり、シェションク1世はアメン神殿や軍の力を借りて王権を維持したのである。 シェションク1世には旧約聖書 歴代誌12:2, 12:9や列王記14:25-26に、王シシャクとして記録されてあるようにエルサレムに攻め上り、数々の宝物と至宝「ソロモン王の金の盾」を奪い取るほど余裕があったと考えられている。 以降はシェションク1世の息子オソルコン1世に王位が継承されるが、その中でもアメン大司祭は重要な職であり続けた。例えば、オソルコン2世に対してテーベのアメン大司祭ホルスィエセも王権を主張し、カルトゥーシュを使用するなどの事件もあった。
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