テーベの動乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 04:03 UTC 版)
紀元前850年頃オソルコン2世が死去した時、慣例に習えばその王位はニムロトの息子で王の孫のタケロト2世の手に渡る筈であった。しかし、タニスの王座に就いたのは出生不明のシェションク3世であった。彼とオソルコン2世の関係は殆ど分かっていないが、タケロト2世がこの王位継承に異を唱え、テーベで王を名乗った事がエジプトをかつてない戦乱をもたらす事になった。 シェションク3世の治世6年目以降、テーベ周辺の地域は事実上中央政府の統制を離れ、独立した国家として機能するようになった。二つの家系はヘラクレオポリスを間に挟み、どちらが優勢とも取れぬ状態でしばらくの間併存していた。 しかしタケロト2世の治世第11年に、ペディバステトなる人物が現れたことで事態が大きく動き始める。シェションク3世の縁者で、その後援を受けたと思われるこの人物がテーベで蜂起したのを皮切りに、上エジプトを巡る対立は一気に内戦へと発展した。タケロト2世は新しいアメン大司祭として自分の息子オソルコンを任命したが、アメン神官団はこの人事を拒否し、ペディバステトを支持した。彼らはハルシエセを大司祭に擁立して反乱を起こしたのである。この反乱においてはヘラクレオポリスの支配者プタハアジアンクエフがオソルコンを助けて反乱鎮圧に協力したため間もなく鎮圧され、首謀者は全員捕らえられて処刑された。その死体は二度と復活できないよう火葬にされたという。しかしテーベに燻る不満はタケロト2世の治世第15年、更に大規模な反乱を誘発した。カルナック神殿に残された年代記に「この国に大動乱が勃発した」と記されるこの内戦は10年以上続いたとされ、優勢となったペディバステト派はオソルコンを砂漠に追放した。 ペディバステトとの決着をつけられないまま、タケロト2世は紀元前825年頃死亡した。しかし、ペディバステト1世はシェションク3世に支配権を返上する事なく、王座に居座って独立を維持し、没後はシェションク6世なる人物が後継者となった。対するオソルコンは西方の砂漠地帯に拠って、再起の機会を伺った。十数年後、シェションク6世を倒して王座を奪回したオソルコンはオソルコン3世として即位し、テーベを巡る一連の内紛はひとまずの終結を見た。しかしこの時点でテーベの一族は第22王朝の分家ではなく、第23王朝と言うべき全く別の王家となっていた タニスの王室は一連の内紛に対して有効な対応策をとることができず、ただ事態を静観するしかなかった。シェションク3世は半世紀以上にわたる長い期間を統治したが、彼の時代はエジプトが再び分裂していく時代の始まりとなった。テーベの独立を端緒として、各地で離反の動きが相次ぎ、第22王朝の支配圏は下エジプト南部と中部エジプトの一部にまで狭まってしまった。
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