エジプトの再統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 04:03 UTC 版)
「エジプト第22王朝」の記事における「エジプトの再統一」の解説
王朝の創始者とみなされるシェションク1世はかつて傭兵としてエジプトに居住地を与えられたリビュア人の子孫であった。このことは、シェションク5世の治世第37年に聖牛アピスを埋葬する儀式が行われた際に記録された祈祷文に、王の祖先の名が記録されていることから証明される。それによればシェションク1世の家系の祖はリビュア人ブユワワであったという。 王位を得る以前のシェションク1世に関する記録は少ないが、彼はプスセンネス2世の娘マートカラーを妻として娶り、軍司令官の地位を得ていたことが分かっている。またアビュドス出土の碑文によれば、彼は第21王朝の王に対し、アビュドスのオシリス神殿に彼の父の像を建てる許可を仰いでいるが、その中で彼は「メシュウェシュの大首長」と呼ばれている。この記録によれば、シェションク1世の父は「メシュウェシュの大首長シェションクと妻メフテンウェスケトの子たるメシュウェシュの大首長ニムロト」であった。 メシュウェシュはリビュア人の有力部族であり、海の民の襲来ではリビュア人の代名詞として使われている名前である。このことからシェションク1世はエジプトに居住したリビュア人部族の首長の地位を世襲する家系の出身であったことが知られ、王女との結婚もこうしたシェションク1世の地位があって可能であったものと考えられる。 シェションク1世は紀元前945年頃に王位を獲得したが、その経緯はあまり知られていない。彼は強力な政治家、軍人であり、南方のアメン大司祭国家の権力も手中にしてエジプトを再統一することに成功した。シェションク1世の長男オソルコン1世は父と同じくプスセンネス2世の娘を娶り、息子の1人イウプトは上エジプト長官、軍司令官、アメン大司祭職を兼任し、別の息子ニムロトはなお油断ならないテーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール)の神殿勢力に圧力を加えるためにヘラクレオポリス(英語版)(古代エジプト語:ネンネス)駐留軍司令官に任じられた。
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