第21王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:35 UTC 版)
一方北では、軍司令官で下エジプトの宰相であったスメンデス1世が都をペル・ラメセスから自身の任地、サイスに移し、第21王朝を開いた。このころは第3中間期、すなわち「混乱期」との分類がされているが、実際にはスメンデス1世は、前述のウェンアメンの航海の時にも援助をしているなどアメン大司祭国家と良好な関係を持った。またスメンデス1世が、カルナック神殿の一部が水浸しになったとき、3000人の労働者を派遣している記録も残されている。 これらの政治的つながりに加え、婚姻でも関係を結んだ。スメンデス1世の死後はヘリホルの息子、アメンエムニスウが継ぎ、アメン大司祭職はパネジェム1世が得る。しかし、このパネジェム1世の息子が次の第21王朝ファラオ、プスセンネス1世である説もあるほど、密な婚姻関係が結ばれていたようである。
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