アメン大司祭国家と第21王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 14:15 UTC 版)
「アメン大司祭国家」の記事における「アメン大司祭国家と第21王朝」の解説
ピアンキが死亡し、その息子パネジェム1世がアメン大司祭となったのとほぼ同じ頃、下エジプトではスメンデス1世がタニスを中心に新しく第21王朝を建てた。パネジェム1世は自らの名前をカルトゥーシュの中に刻んでおり、王として振舞ったことがわかっているが、対外的には第21王朝の王権を認め、スメンデス1世の治世年を年号として用いていた。そしてラムセス11世の娘の一人en:Duathathor-Henuttawyを妻として迎え、王女マートカラー(英語版)をもうけた。既に初代のヘリホルはラムセス11世の姉妹を、第21王朝のスメンデス1世はラムセス11世の娘の一人を娶っており、第20王朝のラムセス11世を介して姻戚関係が形成されたのである。 そしてスメンデス1世が死去すると、政治闘争の末にヘリホルとノメジトの息子であったアメンエムニスウを第21王朝の王位に付けることに成功した。これが激しい政治闘争を伴っていたことは、彼の即位に伴って多数の人々がエジプトから追放されているという点から確認されており、反対派の官吏はその地位を失っている。アメンエムニスウは間もなく死去したが、既に政治的な主導権を握っていたピアンキは自分の息子であるプスセンネス1世を第21王朝の王位に付けることができた。ピアンキの別の息子であるマサハルタ(英語版)とメンケペルラーはアメン大司祭職を継承した。このうちメンケペルラーはプスセンネス1世の娘イシスエムケブ(Istemkheb)と結婚し、アメン大司祭国家と第21王朝の間には極めて濃密な血縁関係が構築された。これによって両者の間には比較的安定した協力関係が持たれることとなった。
※この「アメン大司祭国家と第21王朝」の解説は、「アメン大司祭国家」の解説の一部です。
「アメン大司祭国家と第21王朝」を含む「アメン大司祭国家」の記事については、「アメン大司祭国家」の概要を参照ください。
- アメン大司祭国家と第21王朝のページへのリンク