第21服 - 第25服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:58 UTC 版)
「へうげもの」の記事における「第21服 - 第25服」の解説
家康は方広寺の梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」の文言をきっかけに豊臣家を追い詰め、織部は家康の強引なやり方を見て失望する。織部は片桐と共に和解に向けて尽力するが、秀頼が戦いを決意したことで徒労に終わる。開戦を前に家康を茶の湯に招いた織部は最後の説得を試みるが、家康が豊臣家との共存を拒否したため家康と決別し、家康も織部の排除を決意する。家康は柳生宗矩に命じて織部を謀殺しようとするが、織部の数寄の前に失敗し、戦いも真田信繁たちの活躍で膠着状態となり和睦する。しかし、家康は大坂城の堀を全て埋めてしまい、豊臣勢の戦力を奪い取る。家康のやり方に不満を抱いた重嗣は徳川への造反を決意する。 織部は禁中や島津義弘たち西国大名と連絡を取り秀頼の身を守ろうとするが、重嗣が謀反を企んでいることが発覚する。同じころ、豊臣討伐のため出陣した家康は光秀の最期を看取った知恩院を訪れ、そこで光秀が織部の数寄を認めていたことを知り、織部を謀反人として処刑するように命じる。織部は豊臣家と息子を守るため重嗣を屋敷から脱出させ、秀頼の末子を連れて福島正則の屋敷に匿わせる。織部の捕縛を知った秀忠や上田宗箇たちは豊臣勢との戦いの手柄を以て織部の助命を願い出ようとする。徳川勢との戦いの末に信繁たちは討死して大坂城も落城し、治長は秀頼と国松を脱出させ、茶々や大蔵卿局たちと共に自害する。 家康は秀頼と息子の行方を探すが、秀頼と国松は九州に落ち延び、末子は重嗣に連れられ福島屋敷に到着した後、増上寺の僧籍に入る。織部に連座して光悦や加藤景延、有来新兵衛たち数寄者も責めを受けるが、彼らは俵屋宗達や又兵衛たちと同様に新しい数寄の美を模索し始める。一方、秀忠は織部を助けるために兵を引き連れて家康と対峙して織部の切腹を撤回させようと迫り、家康は心労で倒れてしまう。しかし、秀忠が数寄に目覚めたことを知った織部は切腹を受け入れ、秀忠に書状を送り最期に向けた準備を始める。織部の意志を知った秀忠は助命を諦め、織部の作った茶の湯の作法を幕府の中に残すことを選択する。同じころ、高台院が療養中の家康の元を訪れ織部の助命を嘆願する。その際、織部が「豊徳合体」のために自分と高台院を引き離したことを知り、織部への憎悪を抱き、介錯役として織部の前に現れる。家康は織部の妻子も処刑することを告げ、織部は家康と殴り合いを始める。しかし、本来の介錯役だった弟子・小堀遠州に一喝された織部は改めて切腹に臨み、数寄を否定する家康を最期に笑わせることに成功する。 織部の切腹から数十年を経て、家康や有楽斎、忠興、遠州たち織部と同じ時代を生きた武人や数寄者も次々と世を去っていく。生き残った宗箇は織部が武人らしい最期を遂げたことが信じられず、同じように織部の生存を疑う又兵衛と共に織部の痕跡を探す旅に出かける。二人は堺、薩摩国、琉球王国を旅するが、織部と思われる老人はすでに南方に旅立ったことを知る。又兵衛は織部の生存を諦めるが、宗箇は老人が住んでいた家屋を訪れる。そこで「へうげもの」の確かな証を見付けた宗箇は、満足してその場を立ち去る。
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