エジプト第1中間期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/10 07:47 UTC 版)
エジプト第1中間期(エジプトだい1ちゅうかんき、紀元前2180年頃 - 紀元前2040年頃)は、古代エジプト史における時代区分。通常第6王朝の崩壊から第11王朝による再統一までの時代を指す。長期間にわたって安定した統治を続けていた古王国の崩壊とその後の戦乱によって社会的、思想的、政治的に大きな変化を齎した。
注釈
- ^ 古代エジプト語ではセバトと呼ばれたが、ギリシア語に由来するノモスの表記が慣習的に広く普及している。
- ^ マネトは紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。
- ^ アフリカヌスの引用による。エウセビオス版では5人の王が75日間とする。
- ^ 古代エジプト語:ネン・ネスHwt-nen-nesu。「ヘラクレオポリス」という名は、この都市で祭られていた地方神ヘリシェフをギリシア人がハルサフェスと呼び、名前の類似等からヘラクレスと同一視したことによって付けられたギリシア語名である。
- ^ この作品を記したパピルスはオランダのライデン博物館に収蔵されている。『イプエルの訓戒』のうち現存するのは紀元前13世紀から紀元前12世紀頃に写されたと考えられる写本である。成立年代については長い議論があり、この文書が書いている状況が第2中間期の物であるとする説もある[16]が、ここでは屋形説[16]に従い第1中間期に成立したとする立場に立っている。この作品は現状の悲惨さを訴えるのみならず、変革と秩序ある社会を実現するための叱責も含まれており、政治論的な色彩も帯びた文書である。
- ^ 文書内では「人となった。」と表記されている。本当の「人」とはエジプト人のみであるとする伝統的な見解が存在した[17]
- ^ 『イプエルの訓戒』の該当する部分では明確に非難の対象の名が記されてはいない。通常神、或いは王を相手とすると解釈される[20]。
- ^ 『メリカラー王への教訓』についてはエジプト第10王朝の記事も参照[21]。
- ^ この神の名は「西方にいる人々(死者)の中の第一人者」という意味である。[25]。
- ^ こアビュドス巡礼について近藤二郎は、キリスト教のエルサレムへの聖地巡礼や、イスラーム教のマッカ(メッカ)への巡礼のような、一神教のものとはやや色合いを異にし、むしろ日本のお伊勢詣に近い物であると述べている。[26]。
出典
- ^ 屋形ら 1998, pp.414-416
- ^ a b フィネガン 1983, p.260
- ^ 屋形ら 1998, p.421
- ^ 例としてスペンサー 2009, p.40
- ^ 屋形ら 1998, p.416
- ^ a b クレイトン 1999, p.91
- ^ 屋形ら 1998, pp.421-422
- ^ フィネガン 1983, p.261
- ^ ドドソン, ヒルトン 2012, p.80
- ^ スペンサー 2012, p.44
- ^ クレイトン 1999, p.92
- ^ 屋形ら 1998, p.422
- ^ a b フィネガン 1983, pp.265-266
- ^ フィネガン 1983, p.267
- ^ a b c 屋形ら 1998, p.424
- ^ a b 屋形訳 1978, p.450
- ^ 屋形訳 1978, p.453
- ^ 屋形訳1978, pp .453-462
- ^ 屋形訳1978, pp .432-436
- ^ 屋形訳 1978, pp.451-452
- ^ 屋形訳 1978, pp.521-526
- ^ 屋形訳 1978, pp.439-449
- ^ 屋形ら 1998, pp.427-429
- ^ a b c 近藤 1997, p.97
- ^ a b 近藤 1997, p.98
- ^ 近藤 1997, p.110
- ^ ウィルキンソン 2015, pp.101-104
- ^ a b ウィルキンソン 2015, p.109
- ^ Fagan 2004, 第7章、第9章
エジプト第1中間期と同じ種類の言葉
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