パレスチナ遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 04:03 UTC 版)
「エジプト第22王朝」の記事における「パレスチナ遠征」の解説
シェションク1世の名を有名にしているのはそのパレスチナ方面での軍事活動である。彼は新王国時代の王に倣い、テーベのアメン神殿に自らの遠征記録を作成した。その中には征服した土地のリストが挙げられている。即ちガザ、アラド、アヤロン、ベト・ホロン、ギベオン、ティルザ、ベトシャン、タアナク、メギドなどである。これらの地名から、この記録が旧約聖書列王記上に記されているエジプト王シシャクの遠征が史実であったことを裏付けるものであるとみなされる。 地名の大半が当時のイスラエル王国(北王国)に属する地名である。この時のイスラエル王ヤロブアムは、かつて第21王朝時代のエジプトに亡命していた経験を持つ人物で、ソロモン王死後の王国分裂に際してイスラエル王位を手に入れていた。このヤロブアムのエジプト亡命経験とシェションク1世のパレスチナ遠征には何らかの関連性があると思われ、その意図を巡って様々な議論がある。 シェションク1世はまずユダ王国を攻撃して圧勝し、エルサレム市にまで迫った(en:Sack of Jerusalem (10th century BC))。ユダ王レハブアムは、エルサレム神殿の財宝のほとんどをシェションク1世に対して献上することでエルサレムの破壊を免れたという。 レハベアム王の治世第5年、エジプト王シシャクがエルサレムに上り、主の神殿と王宮の財宝を奪い取った。彼は全てを奪い、ソロモンが作った金の盾も全て奪い取った。 次いで北のイスラエルを攻撃し、これにも勝利を収めた。ヤロブアムはギレアド(現ヨルダン)地方へと逃亡し、シェションク1世はメギドにまで到達したのである。彼は500年前にこの地で勝利を収めたトトメス3世の例に倣って戦勝記念碑を建設し、勝利のうちに本国へ凱旋した。 シェションク1世はこのようにパレスチナ地方を席巻したが、パレスチナに対するエジプトの支配は恒久的なものとはならなかった。
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