エルサレムの破壊
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「エルサレム攻囲戦 (70年)」の記事における「エルサレムの破壊」の解説
スルピキウス・セウェルス(Sulpicius Severus、363年–420年)は、著書『Chronica』の中でタキトゥス(56年–117年)の著書の一部を引用し、ティトゥスはユダヤ人を根絶するためにエルサレム神殿を破壊することを望んだと書いている。一方、フラウィウス・ヨセフスはより穏健な見方をしており、ティトゥスは他の者たちと話し合いを行った結果、建設以来千年の歴史を有するエルサレム神殿を残そうとしたと書く(ソロモン神殿(第一神殿)が建設されたのは紀元前10世紀のことだが、この攻囲戦の当時の神殿はヘロデ大王の築いた第二神殿であり建設後90年ほどである)。フラウィウス・ヨセフスは、ユダヤ人の度重なる攻撃と戦術に怒り心頭となったローマ兵が、ティトゥスの命令を破って神殿に隣接する区画へ火を放ち、それが神殿全体に広がったとしている。 フラウィウス・ヨセフスはローマ軍とユダヤ人の仲介者たろうとしたものの失敗した。その後目撃したことについて、『ユダヤ戦記』では次のように書く。いわく、殺すものも奪うものもなくなった後、ティトゥスは神殿も市街も全て壊すように命じたという。ただしファサエルス塔(Phasaelus)、ヒッピクス塔(Hippicus)、マリアムネ塔(Mariamne)の3つの大きな塔、および市の西を囲んでいた城壁は残された。城壁は街の跡に作られた兵営を守るため、塔はローマ軍が征服したエルサレムがどのような頑丈な都市だったかを後世に示すために保存されることとなった。ただしそれ以外の城壁は掘り崩され、後世にこの場所を訪れる者が、この地に人が住んでいたことを信じられなくなるほどに破壊されたという。フラウィウス・ヨセフスは木々や庭園に囲まれた偉大な都市が全て消えうせ、美しかった郊外が砂漠のようになってしまったことを悲しいことであると書く。 フラウィウス・ヨセフスは、この攻囲戦で「110万人」が死に(そのほとんどはユダヤ人)、9万7千人が捕虜となり奴隷にされたと書く。捕虜の中には、叛乱の指導者だったシモン・バル・ギオラやギスカラのヨハネも含まれていた。多くのユダヤ人が地中海一帯に逃げたともされる。ティトゥスは、「自分たちの神に見捨てられた民を征服しても、何も得るものはない」として、勝利の花冠を受け取るのを拒否したとされる。
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