エルサルバドル内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/13 09:16 UTC 版)
エルサルバドル内戦 | |||||||
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中央アメリカ紛争中 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
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指揮官 | |||||||
シャフィク・アンダル ホアキン・ヴィラロボス カエタノ・カルピオ サルバドール・サンチェス・セレン |
ロベルト・ダビュイソン アルバロ・マガナ ジョゼ・ギエルモ・ガルシア /ナポレオン・ドゥアルテ カルロス・エウジェニオ・ビデス・カサノヴァ アルフレード・クリスティアニ |
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戦力 | |||||||
6,000人 - 15,000人 (1985年) | 39,000人 - 51,150人(1985年) | ||||||
被害者数 | |||||||
20,000人死亡 | 7,000人死亡 | ||||||
上記の戦闘員と一般市民を含めて75,000人が死亡。 |
エルサルバドル内戦(エルサルバドルないせん、スペイン語: Guerra civil de El Salvador)は、エルサルバドル政府と社会主義勢力であるファラブンド・マルティ民族解放戦線が激突した内戦。
背景
1969年のサッカーワールドカップでの判定を背景に発生したホンジュラスとの「サッカー戦争」以降、エルサルバドル国内では右翼・左翼を問わず、小規模なゲリラ攻撃が散発的に発生するようになった。
1979年のニカラグアにおけるサンディニスタ革命以降、複数の共産ゲリラがファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)に統合され蜂起を開始。1980年3月24日、人権侵害を証言し、政府および軍部による搾取と弾圧への批判[1]を行っていたオスカル・ロメロ司祭が病院のチャペルで行われたミサの最中に右翼勢力に射殺されると、内戦は本格化なものになっていった。
内戦状態
混乱の中、中米における反共戦略を掲げていたアメリカ合衆国のロナルド・レーガン政権はエルサルバドル政府の要請に応じて、経済援助と軍事訓練プログラム[2]の支援を行った。これら米国の支援を受けた政府軍および右翼勢力の死の部隊とFMLNゲリラとの交戦との過程で多数の一般市民が巻き込まれ、内戦は泥沼状態と化した。
中でも、政府側の虐殺行為は後に取り沙汰されるもので、1989年11月、米陸軍特殊部隊グリーン・ベレーより指導を受けた陸軍の対ゲリラ部隊「アトラカトル大隊」(スペイン語: Batallón Atlácatl)の隊員が、6人のイエズス会司祭と、料理人と娘を殺害するという事件が有名である。[3]
1992年、国際連合の仲介で和平が実現し、国連平和維持活動(PKO)として国際連合エルサルバドル監視団が派遣される働きかけがあり[4]内戦が終結。1994年には選挙が行われ、右派政党民族主義共和同盟(ARENA)による新たな政権が誕生した。
国連真実委員会の報告によると、内戦中に行われた暴力行為の85%は親政府の死の部隊とサルバドール軍が、5%はFMLNゲリラが担当した。[5]
内戦終結後
FMLNは内戦終結後政党となり、1994年の選挙ではARENAに敗北しつつも、2000年代以降二大政党の一角としての地位を築き始め、2009年には選挙でARENAに勝利し、マウリシオ・フネスとサルバドール・サンチェス・セレンを大統領とする政権を立てた。
題材とした作品
映画
- サルバドル/遥かなる日々(1986年、アメリカ)
- イノセント・ボイス 12歳の戦場(2004年、メキシコ)
出典
- ^ SICSAL
- ^ 米国の歴史の概要 – 新しい保守主義と新たな 世界秩序
- ^ Salvadoran Justice Wears Out Patience
- ^ エルサルバドル (EL SALVADOR)
- ^ “Truth Commission: El Salvador” (英語). United States Institute of Peace (1992年7月1日). 2022年4月6日閲覧。
関連項目
- 米州学校
- グアテマラ内戦
- コントラ戦争
- マラ・サルバトルチャ(MS-13)
外部リンク
エルサルバドル内戦
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「アメリカ陸軍特殊部隊群」の記事における「エルサルバドル内戦」の解説
アメリカ合衆国は、中米地域に対して伝統的にも地理的にも強い影響力を持つが、1959年のキューバ革命以降、中南米に共産主義が台頭し始め、強い警戒を示していた。ベトナム戦争以降、アメリカ政府は情勢不安定な地域に軍事顧問を派遣、親米組織の支援することが外交政策の一環となっていたが、中南米の共産化を防ぐ意味でも、現地軍の強化は死活問題であり、中米諸国に対してグリーンベレーを中心とする軍事顧問を派遣した。それが端的に現れているのが、エルサルバドル内戦におけるエルサルバドル軍の支援である。エルサルバドルは1979年に内戦に突入、それから4年間で左翼武装組織FMLN(ファラブンド・マルティ民族解放戦線)が勢力を拡大、アメリカを大いに警戒させた。そのため、レーガン大統領は、急遽第3特殊部隊グループに所属するグリーンベレー隊員55名からなる軍事顧問団を編制、派遣した。しかし、ベトナム戦争の敗戦で外交政策に影を落としてしまったがため、レーガン大統領は軍事顧問団に戦闘地域を避け、訓練のみに徹するよう命じたとされる。 グリーンベレーは到着後、対ゲリラ戦に特化した精鋭大隊(アトラカトル大隊など)を数個編制。この部隊をお手本として、当時3万人ほどで構成されていたエルサルバドル軍は、部隊を再編成、強固な軍へと生まれ変わる。これにより、1985年以降、情勢はエルサルバドル政府有利になり、1992年に政府側の勝利で内戦が終結した(ちなみに、FMLN自体は合法政党化した)。なお、この内戦でエルサルバルド軍はゲリラ容疑者やシンパをかき集めては、即決裁判を行い直ちに処刑するなど、非常に残忍であったが、陰謀論としてこれら行為にグリーンベレーは関与したのではないかと疑われるも、明確な証拠は存在しない。
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