発見と研究
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8世紀にジャービル・イブン=ハイヤーン(ゲベル)は初めて酢の蒸留によって酢酸を得ている。またルネサンス時代には、錬金術師たちは酢酸銅(II) などの金属酢酸塩を乾留して氷酢酸を製造した。最初にそのような製法で酢酸を作り出したのはバシル・バレンティン(英語版)とされている。16世紀のドイツの化学者アンドレアス・リバヴィウスは、氷酢酸の製法と、得られた氷酢酸と酢との物性の比較について著述している。そのように、酢の中には水が存在するため物性が酢酸と異なることから、氷酢酸と酢の中の酸は別の物質であると長く信じられていたが、18世紀になるとフランス人化学者のピエール・エディ(英語版)により両者が同一であることが示された。 1845年にドイツ人化学者のヘルマン・コルベは無機物から有機物である酢酸を合成できることを示した。その反応は、まず二硫化炭素から四塩化炭素への塩素化で始まり、次いでテトラクロロエチレンへの熱分解、そしてトリクロロ酢酸への水性塩素化、最後に電解還元による酢酸の生成、というものだった。この結果はフリードリヒ・ウェーラーの尿素合成による生気論の否定を決定付けた。一方ルイ・パスツールは1862年に酢酸菌を発見し、酢の醸造に利用されるようになったが、得られる濃度が低いため工業用の酢酸の製造には適していなかった。
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発見と研究
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1856年にドイツでネアンデルタール人類の化石人骨が発見されて以降、1891年にはインドネシアのジャワ原人、1908年にはネアンデルタール人類に属するラ=シャペル=オ=サン人(La Chapelle-aux-Saints/発見地:同名)がフランスのリムーザン地方から発見されるなど、20世紀初頭から人類進化の過程が少しずつ解明されはじめたが、まだ充分に資料や知識が蓄積されていたわけではなかった。 そのような時代の1909年から11年にかけて、弁護士でありアマチュア考古学者でもあったイギリス人、チャールズ・ドーソンによってピルトダウンから発見された頭頂骨と側頭骨が、大英博物館(ロンドン自然史博物館)のアーサー・スミス・ウッドワード卿の研究室にもたらされた。ウッドワード卿は1911年に自ら現地に赴いてドーソンと共同で発掘を行なっているが、この時にも後頭骨や下顎骨の一部、石器のほか年代推定の根拠となる動物化石を発見し、その後も犬歯などの断片的な化石が発見され、それらを研究したウッドワード卿は発見された化石人骨に Eoanthropus dawsoni (エオアントロプス・ドーソニ〈la:ダウソニ〉)の学名を与えて発表した。「ドーソン(氏に由来)の、夜明けの人」との語義を持った名称である。 その骨、その脳頭骨は現生人類を思わせるほど丸く膨らんで大きく、対照的に下顎骨は非常に原始的で類人猿のようであったが、臼歯の咬合面の磨耗は人類特有の咀嚼によって生じたものであった。発達した脳と原始的な顎の特徴、伴出した動物化石等から、ウッドワード卿はピルトダウン人を更新世初期に由来する現生人類の最古の祖先と見なした。 これらの研究に当初から疑惑が無かったわけではない。ドーソンが自宅で骨を造っているのを見たという話が流れ、専門家の中でもボヘミア(現在のチェコ西部)生まれの米国の人類学者アレシュ・フルドリチカ(Aleš Hrdlička)は下顎骨は類人猿のものであろうと唱えてピルトダウン人の化石を否定した。しかし実際は肯定する学者の方が多く、イギリス人類学界の大御所であったアーサー・キース卿(Arthur Keith)やグラフトン・エリオット・スミス卿(Grafton Elliot Smith)などの著名な学者の支持を得たこともあり、ピルトダウン人は現生人類の直系の祖先と認められた。 その後、世界各地で古人類化石が発掘された。1920年代には中国で北京原人が、南アフリカではアウストラロピテクス・アフリカヌスが発見され、その他にも様々な進化段階の化石が出土して、人類の進化の内容が次第に明らかにされてゆく。第二次世界大戦前では研究はまだ充分とは言えなかったが、人類はまず直立二足歩行が先に始まり、脳の進化はかなり遅れたらしいことが分かってきた。ピルトダウン人はそうした進化の流れから外れていて、ウッドワード卿が説いた更新世初期というような古いものではなく、更新世中期かそれ以降のものではないかとも考えられた。また、ピルトダウン人の化石が発見されたはずの地層からは、ドーソンの没した1916年以降一切の化石の出土が見られなかった。 それでも、戦前には化石は厳重に保管されて理化学的検査も認められなかったため、捏造を立証し得る確たる材料も無く、1940年代の終わりまでに250編もの論文が発表された。ピルトダウン人化石の年代が明らかになったのは1949年のことである。
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発見と研究
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遺跡は1976年に、サン・フアン・オピコ近郊に小麦用のサイロを建設するという政府の農業計画に基づいて一帯を平らにならす作業中に、ブルドーザーの運転手が偶然に発見した。1978年と1980年にはコロラド大学ボルダー校の考古学教授だったペイソン・シーツ(英語版)による最初の本格的調査が行われた。その後のエルサルバドル内戦によって調査は中断せざるを得なくなったが、1989年に発掘が再開され、それ以降継続されている。火山灰からは日干しレンガの建物17棟が出土し、貯蔵室、台所、居住区画、作業場などが見つかっている。ほかに共用の施設としては共同浴場や大集会場、さらに宗教的機能を持っていたと推測されているピラミッド状の建造物もある。 遺跡からは古民族植物学(英語版)的な遺物の数々も発見されている。すみやかに降り積もったロマ・カルデラの火山灰は比較的低温・湿潤であったため、植物に関する痕跡を多く手に入れることができたのである。わけても重要なのがキャッサバ畑の発見で、新世界の考古遺跡で発見された現存最古のキャッサバ耕作地である。キャッサバは分解して長く経っていたものの、研究者たちは灰の中に空いた空洞を満たす形で石膏の型を作り出した。セレンの農夫たちは噴火するまさに直前にキャッサバを植えたのである。ほかにも、トウモロコシ畑については、収穫期と生育期のトウモロコシが植わっていたことが明らかになっているし、赤インゲン豆、カカオ、チリトウガラシなども見つかっている。
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発見と研究
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東京人類学会の会員であった荘司平吉は北海道においてアイヌの民具などを収集していたが、その中には文字の記された古器物が存在していた。1886年(明治19年)9月6日の『陸奥新報』と同月12日の『奥羽日日新聞』にその一部である樹皮と帯が紹介され、榎本武揚が千年ほど前に蝦夷が用いた文字であろうと鑑定している。また同年12月の第25回東京人類学会では、文字の記された古器物として獣皮・六角四面の石片・和紙・鞘袋が荘司により出品された。 人類学者の坪井正五郎は、翌1887年(明治20年)2月の『東京人類学会報告』第12号において「コロボックル北海道に住みしなるべし」を発表し、自身のコロボックル説に基づき荘司の収集した古器物に見られる「異様の文字」について、後述する手宮洞窟の彫刻や忍路環状列石と同様にコロポックルのものであるとした。 また坪井は同年8月の『東京人類学会雑誌』第18号にて「北海道諸地方より出でたる古器物上に在る異体文字」を発表し、この「異体文字」について手宮洞窟の彫刻とは異なり記号が規則的に並んでいることから文字であると断言して差支えないとした上で、ユーラシア大陸から渡来した人々によって用いられたものである可能性を示唆した。 同年10月の『東京人類学会雑誌』第20号では荘司自身により「アイノ及び北海道の古代文字」が発表されている。その中で荘司は確証はないとしながらも、古い時代に蝦夷が用いた文字ではないかとしている。 翌1888年(明治21年)には国学者の落合直澄によって『日本古代文字考』が著された。同書では北海道異体文字について、日本語が通じず漢字を用いない蝦夷によって用いられたものとしている。そして14の記号を組み合わせた50の文字とそれらの合字から成り立っているとしたが、読み方が伝わらないために解読はできないとする。また平田篤胤の著した『神字日文伝』附録疑字篇に採録される出雲石窟の文字や「神代十干」、落合が実見したとされる吉見百穴の文字との関連を示唆している。 以下に北海道異体文字の発見に関する年表を記す。 1886年8月 - 荘司が北海道異体文字の記された石6個を宗谷へ「古物捜索に参りし者」より入手。 同年9月 - 『陸奥新報』と『奥羽日日新聞』に文字の記される古器物が紹介され、榎本武揚が鑑定。 同年12月 - 第25回東京人類学会に北海道異体文字が記される古器物が出品され、坪井正五郎が調査。 1887年2月 - 坪井「コロボックル北海道に住みしなるべし」 同年同月 - 荘司が北海道異体文字の記された石片2個を岩内郡のアイヌより入手。 同年8月 - 坪井「北海道諸地方より出でたる古器物上に在る異体文字」 同年10月 - 荘司「アイノ及び北海道の古代文字」 1888年4月 - 落合直澄が大江卓を訪ね、北海道異体文字について調査。 同年5月 - 落合『日本古代文字考』 1975年(昭和50年)には吾郷清彦によって『日本神代文字』が著された。同書において吾郷は「アイノモジ」について、後述の「手宮古字」と同系の文字であるとし、またフゴッペ洞窟の彫刻との関連も示唆している。 また高橋良典が会長を務める日本探検協会では、北海道異体文字を含む神代文字と超古代文明の関連を主張している。そして北海道異体文字については、メソポタミアの古代文明であるシュメールやアッシリアとの関連を示唆している。またフゴッペ洞窟の彫刻の一部について、北海道異体文字を記したものと主張している。 2007年(平成19年)には原田実によって『図説神代文字入門』が著されている。同書では「アイヌ文字」に関連して以下のように述べている。 あるいは、出雲の書島石窟なるものも、手宮やフゴッペと同系統の洞窟壁画だったのではないだろうか。落合が指摘した出雲文字とアイヌ文字の外見上の類似(さらには手宮・フゴッペ洞窟壁画との類似)、そこには古代の北海道と山陰地方の間での文化交流の存在が示唆されているともいえよう。 — 原田実、『図説神代文字入門』138頁より
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発見と研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 02:31 UTC 版)
1895年にオーストリアの皇室がもつコレクションから図版つきの写本が「発見」されたことがきっかけとなり、ヨーロッパ各地の図書館に類似した写本が存在することが次々と報告された。これらの写本にはすぐれた絵が収められていたとはいえ、同時代のフィレンツェを中心とした14世紀のイタリアが誇る作品群とは比べようもなく、すぐに熱心な研究対象とはなったわけではない。しかし1950年代にはパリやウィーンで写本の展覧会が開かれ、目録や研究書が出るなどして、より多くの人々がその価値を知るところとなった。1980年代には装飾写本一般への関心が高まったこともありファクシミリ版で写本が出版され、研究も盛んになっていった。
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発見と研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:54 UTC 版)
温室効果は、1824年にジョゼフ・フーリエによって発見された。1890年に出版されたピッツバーグのアレゲニィ天文台での赤外線観測におけるサミュエル・ラングレーとフランク・ワシントン・ヴェリーとの共同の論文を元にスヴァンテ・アレニウスは1896年、炭酸ガスと温室効果との関連性に初めて言及した。これらは全てグリーンハウス(温室)による保温のようなものだとされており、放射の吸収によって起こるということが解明されるのはさらに後のことであった。
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発見と研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 01:51 UTC 版)
ドレクセル大学のケネス・ラコバラはアルゼンチン・パタゴニア・サンタクルスのセロフォルタレーサ累層で2005年に化石を見つけた。骨は非常に大きい上、離れた場所に散在していたため、チームが完全に掘り起こすのに4年かかった。最終的にフィールドジャケットにくるまれた骨をトラックに積載するために更に多くの人員を要した。 2009年、その化石は倍出と研究のためにフィラデルフィアの海洋学研究所へ運ばれた。化石は補修され、ドレクセル大学とカーネギー自然史博物館によって分析された。その後、ドレッドノータス・スクラニの化石はリオガレゴスの Museo Padre Molina という博物館へ収蔵された。 2点のドレッドノータスの標本は、3Dレーザースキャナーでスキャンされた。ソフトウェアAutodesk Mayaを使用して、各骨のスキャンを3D空間に配置してデジタル関節骨格を作成し、GeoMagicというソフトウェアを使用して3D PDFファイルに変換された。スキャンの精密性は高く、また重すぎる化石の取り扱いを効率化し、長距離間での共同作業も可能にした。 ホロタイプMPM-PV 1156は、部分骨格で成る。元の形状のままで保存されており、以下のものを含んでいる。:上顎骨の断片、歯、頚椎、 頸肋骨 、複数の胴椎および肋骨、 仙椎、前部から中部尾椎とそれらに対応する血道弓、左肩甲骨、そして手首より先以外の前肢要素。両方の胸骨、すべての骨盤要素、左後肢、右脛骨等はまるごと欠けている。 パラタイプ MPM-PV 3546は部分的に関節した体骨格で、同じ場所で見つかったホロタイプよりわずかに小さい。それは一番後ろの頚椎、複数の胴椎、肋骨、骨盤、尾椎、血道弓、ほぼ完全な上腕骨、そして左大腿骨で構成される。 ドレッドノータスの名前の由来であるドレッドノートとは、英語で弩級戦艦のことで、20世紀初頭の戦艦の種類の一つで、単語のもともとの意味は dread(恐怖)+ nought(無い)から来ている。ドレッドノータスが成長すると巨大さゆえに捕食者に狙われることもなく無敵の恐れ知らずだっただろうというイメージ、それと20世紀前半、弩級艦を造っていた2つの会社がドレッドノータスが見つかった町の近くにあったことから命名されたらしい。種小名スクラニ 'schrani' は、プロジェクトに出資したアメリカの実業家アダム・シュラン Adam Schran への献名である。
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