推定の根拠とは? わかりやすく解説

推定の根拠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 09:16 UTC 版)

近代以前の日本の都市人口統計」の記事における「推定の根拠」の解説

藤原京 慶雲元年704年)に藤原京に住む百姓1505烟へ布を賜ったとの記述『続日本紀』にあるが、岸俊男藤原京12条8坊384町と考え、1505烟という数字在地住民と京内に新たに宅地班給受けた官人戸数(大宝元年701年)の五位上の官人119名、六位以下の官人推定676名)の合計であると仮定し、1家6.2人または1郷戸16.4人(天平5年733年)の平城京の『右京計帳断簡による数字)として、藤原京人口1万~3万人推定した最近の研究藤原京岸俊男想定したより広いことが指摘されている。鬼頭清明は、宮、市、寺院除いた藤原京面積(300坪)を平城京(1132坪)と比較し後述する平城京推定人口14万人とすることで4万人弱、更に藤原京となった飛鳥故宮の地を含めて藤原京総人口5万~6万人推定した木下正史慶雲元年記述藤原京拡張に伴う移転補償相当する考えとなる300町の人口を、平城京推定人口に関する田中琢に従って1万6000人と概算した。また外郭の1505烟の人口岸俊男説の1万~3万人として合計2万6000~46000人、さらに京内の人口を加えて藤原京人口を35万人と推定した平城京・奈良 澤田吾一は、平城京京城面積道路含めて約20.1 km2)、道路除いて約16.3 km2見積もり明治4年1871年)の金沢人口密度(123363人/140万平方丈)との比較から、京城人口175000人、これに2万人以とみられる郊外寺院人口合算して平城京人口20万人見積もった。 この推定人口には異論があり、例え村井康彦最盛期でも20万人の1/3から半分程度という推定値出している。 一方岸俊男は、平城京面積藤原京のほぼ3倍であることから総戸数を約4500戸と見積もり平城京郷戸平均16.4人から平城京人口を7400010万人と見積もった鬼頭宏725年平城京推定人口として岸俊男下限推定人口(74000人)を採用している。 田中琢『日本書紀』記載する持統5年691年)の藤原京宅地支給基準(上戸1町、中戸半町下戸1/4町、または成人男性8人以上が大戸、4人以上が中戸2人以上が下戸)に着目し、1町平均成人男性8人、1成人当たりの平均家族6.7人(『右京計帳断簡による数字)として、平城京1368町の内の居住地約1150町の人口を6200010万人と試算した鬼頭清明は、最近の発掘調査による居宅規模居住人口から推定人口95000174000人、階層構造から推定人口114494~197361人を導いている。 平城京推定人口構成 (鬼頭清明, 1988)階層人口五位以上 1,200 六位以下の長上官 6,000 番上官 30,000 庶民 41,362112,531 仕丁衛士20,630 奴婢 16,028~27,630 合計 114,494~197,361 平安京遷都以後奈良南都呼ばれるようになり、門前町として栄えた。 『尋尊大僧正記』によると、正長元年1428年)の大乗院領・元興寺領の地口(道路面した建物長さ)の総計が937間2尺5寸ある。一方田楽頭役御領元興寺領地口銭帳』によると、大永5年1525年)の大乗院領・元興寺地口総計1324間5尺に対して670軒とある。これらの地口表から畠地を除くことにより、大乗院領・元興寺領の家屋数は15世紀400軒、16世紀600軒と推定される。これらの院領が奈良門前地域の1/4を占め、1戸4人と仮定し、更に門前以外の地域人口加算することにより、14世紀奈良人口70008000人、15世紀初頭奈良人口1万人以上と推定される難波宮 神亀3年726年)に聖武天皇後期難波宮造営し平城京との複都制実施した。ウィリアム・ウェイン・ファリス(William Wayne Farris)は難波人口平城京半分程度の35000人と推定している。 大宰府 奈良時代大宰府東西24坊、南北22条広さ持ち平城京面積の1/4程度大きさで、九国二嶋を管轄する軍団置かれた。 ファリス奈良時代の総都市人口20万人大宰府人口1万5000人と推定している。 平安時代に入ると次第兵制縮小し弘仁4年813年)には大宰府管区全域(九国二嶋)の兵数律令時代の約半数9000人に、天長3年826年)には1920人にまで減らされる。この時大宰府には統領8人、選士400人、衛兵200人が置かれた。その後大宰府は、遣唐使廃止藤原純友の乱衰退するが、平安時代末には再び復興する1471年の『海東諸国紀』によると、大宰府は民居2200余戸正兵500余で、推定人口1万人以上。 長岡京 現在までの発掘調査からは、長岡京少なくとも5万人以上の人口を有していたと推定されている。 平安京 平安時代初期・前期 天長5年828年)の大政官符によると平安京には580余町あったとされる阪本敦は、1町32戸、1戸平均20人として9世紀初期王朝時代平安京人口37万人とし、遷都直後初期平安京人口はこれと同等それ以下であろう推定した。 また大正4年1915年)に『京都坊目誌』を完成させた碓井小三郎は、遷都当初延暦13年794年)の戸数・人口を8万戸40万人、ほぼ平安京完成した弘仁9年818年)の戸数・人口10万50万人推定している。 しかしながらこれらの推定値一般に過多考えられており、原田伴彦澤田吾一平城京推定人口(20万人)が平安京人口の上限と考えた社会工学研究所900年1100年1300年1400年平安京推定人口として澤田吾一平城京推定人口(20万人)を採用している。 チャンドラー洛中面積(20 km2)に当時長安推定人口密度(100 人/km2)を乗じた値である20万人を、800年頃の平安京推定人口としている。 一方村井康彦は天長5年828年)の大政官符記載の580余町、1町平均32戸、『三代実録記載貞観13年871年)の1戸当たり平均人口5~6人から、平安京人口の最低値を9万人とし、実際は1戸1家族以上と考えられることから、初期王朝時代平安京人口10万15万人推定した。これは平安京総面積推定人口100万とされる長安の1/3程度、かつ実際に市街化された地域はさらにその半分程度であることと矛盾しないとしている。 井上満郎は、鎌田元一推定する人口増加率参考に、 岸俊男推定する平城京人口(74000人) の20%増の88000人を初期平安京人口推定した。また大政官符記載する580町とは左京のみの数字であると前後文章から判断し初期王朝時代もまだ9条72300保1216町の構造保っていたと考えた貴族官位別人数より平安京内裏80.0町、東西両寺などの特別区42.5町、貴族官人居住区600町、諸国から上京してきた職人たちが住む諸司厨町41町、一般市民居住区452.5町と概算し貴族官人人口延暦4年785年)の貴族官位分布などから863戸、諸司厨町の1町当たり戸数22戸、一般市民居住区の1町当たり戸数32戸、1戸当たり平均人口を6.22人として117372人という数字得た。これに内裏(天皇皇族後宮)と東西両寺などの特別区に住む人々や、奴婢加え初期王朝時代平安京人口1213万人推定した平安京居住区分別推定人口構成 (井上満郎, 1992年)居住区町数人口天皇皇族居住区(内裏) 80.0町 ? 特別区(僧侶神官) 42.5町 ? 貴族官人居住区(一位初位) 600.0町 12,273 諸司厨町 41.0町 15,033 一般市民居住区 452.5町 90,066 合計 1216町 117,372 鬼頭宏は、天長5年828年)の大政官符町数から推計し戸数(1万5600戸)と『三代実録記載貞観13年871年)の1戸当たり平均人口(6.22~6.58人) より、西暦800年及び900年頃の平安京人口12万人推定した近年考古学調査により平安京北西南西南東の端では、そもそも整備されたのは条坊制のための道路だけで、遷都当初から市街地化していなかったことが判明している。また相国寺境内遺跡調査から、平安時代前期には平安京北郊への拡大が既に始まっていた可能性が高い。天長5年828年)の大政官符登場する580町は左京町数考えられ理論上608町との差28町は、市街化されていなかった左京南東端(鴨川)であると解釈される平安時代中期・後期 一般に平安時代中期10世紀頃より平安京の北、東へ膨張始まった考えられている。慶滋保胤の『池亭記』には、右京衰退し左京の北半分には上級貴族大邸宅が林立している10世紀末の平安京描かれており、チャンドラー10世紀後半より平安京人口減少局面入ったとして1000年頃の人口175000人と推定している。 しかしながら考古学的調査では、元々右京開発困難な湿地帯未開発のまま残されており、右京幹線道路沿いに町屋が島状・帯状立ち並ぶような、田園と町通り混在し状況平安遷都当初から続いていたと推定され、むしろ市街洛外膨張していた。やがて鴨川の東に白河造営された。平安時代後期に入ると、南側には鳥羽離宮造営されその結果左京南部初め市街形成される。また平安時代中期まで維持・管理続けられ条坊制11世紀半ば終焉する。 村井康彦は、『日本略記』にみられる寛弘8年1011年)と万寿元年1024年)に起こった火災記録から、1町当たりの平均戸数3070家と推定した当時町数天長5年828年)の大政官符町数(580余町)より若干増えた600余町と仮定し、また『三代実録記載貞観13年871年)の1戸当たり平均人口(左京3.9人, 右京6.3人)とより、王朝時代平安京人口1720万人推定した平安時代後期になると武士階級京都進出し源氏六条堀川室町に、平家洛東六波羅本拠地構えた『平家物語』によると平家一族最盛期には六波羅一帯一族郎党家屋が5200戸に達した。 『百練抄』や『玉葉』、『方丈記』によると安元3年1177年)の大火(太郎焼亡)では京都の1/3に相当する180余町2万家が焼失し治承2年1178年)の次郎焼亡では七条界隈30数町が焼失した坂本敦はこの時焼け残った町数天長5年828年)の平安京町数580余町から400町と推定し、1町当たり55.5家、1家10人として平安末期平安京人口422000人と推定した。 ただしこの推定値一般に過多考えられている。 太郎焼亡では大極殿焼け落ち以降再建されることはなく、治承4年1180年)には一時的に福原京遷都される。またその後養和の飢饉影響で、養和2年1182年)には左京死体の数が旧暦4月5月の2ヶ月間で42300余を数えたという記述が『方丈記』にある。チャンドラーはこの時期京都人口10万人にまで減少した推定している。 鬼頭宏平安時代通じてそれほど平安京人口変動はなく、初期王朝時代推定人口(12万人)を平安時代末期西暦1150年平安京人口としている。 鎌倉時代 鎌倉時代京都町並み変遷については資料限られており衰退程度には諸説あるが、13世紀中ごろには右京3/4田園化していたと考えられる碓井小三郎は、鎌倉時代京都人口を、910万人と推定している。 チャンドラーは、元弘3年1333年)の京都人口2万人と推定し、そこから1200年1250年1300年推定人口10万人、7万人、4万人補完し求めている。 室町時代前期師守記』によると貞治4年1367年)に病院建設のための資金1万疋を集めるため、各家から10文を集めたという記述があり、当時京都に暮らす一般庶民1万戸約5万人と推定される高尾一彦林屋辰三郎松浦玲らは公家武家寺社関係者人口それぞれ3~4万人1万人、1万人と推定し14世紀後半から15世紀前半京都人口10万人と推定している。 また『東寺王代記』によると応安5年1372年)の火災では3822万余家が焼失したとある。 応仁の乱~戦国時代前期 応仁の乱先立つ長禄・寛正の飢饉では、『碧山日録』によると寛正2年1461年)の2ヶ月間で京中にて8万2千人死体数えられ鴨川水流死体堰き止められるだったという。 応仁元年1467年)に始まる応仁の乱では、『応仁記』によると上京だけで二条から霊辻、大舎人から室町までの100町、3万余宇が灰燼に帰したとあり、チャンドラーは乱直前京都人口15万人推定している。 なお1471年の『海東諸国紀』は京都戸数206千余と伝えているが、戸数としては多過ぎるため、人口間違いかもしれない碓井小三郎やチャンドラー応仁の乱終結した文明9年1477年)の京都人口を、4万人推定する戦国時代京都町並みは、上京下京室町通1本で繋がる状態にまで衰退しているが、15世紀後半京都人口については、チャンドラーのように4万人低く見積もる説 から、高尾一彦らのように20万人近く高く見積もるまである。 『後慈眼院殿記』によると、明応3年1494年)の火災では下京30余町1万戸が焼失したという。また明和9年1500年)には上京被災し焼失した家屋1万5000軒から4軒と、文献によって数字異なるが、原田伴彦はこの時期京都人口2万10万人と推定する一方高一彦らは15世紀末の京都は、上京60007000戸、下京1万1万数千戸の合計2万10万人の商工人口がおり、これに公家武士寺社関係人口と、数万人に及ぶ散所河原人口加えれば上下京の人口合計1518万人達した推定している。 戦国時代後期~安土桃山時代 天文20年1551年)に京都訪れたザビエル書簡の中で、京都リスボンよりも大きく、96000戸の戸数があると伝えているが、この数字山城国全域戸数思われる織田信長保護のもと京都繁栄取り戻し元亀2年1571年)に京都訪れたイエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラは、かつて京都30万戸誇ったが現在は6万戸のみであると『イエズス会日本通信』に記述しており、安土桃山時代京都人口チャンドラー30万人高尾一彦らは控えめ20万人以上と推定している。 江戸時代以降京都町並みは、豊臣秀吉により復興されたものである碓井小三郎は、慶長3年1598年)の京都人口50万人推定している。 多賀城日本後紀』によると、延暦17年798年)に陸奥国府に居住する上級官人国守、介、大掾、小掾、大目少目2人(以上国司)、博士医師史生5人、守慊仗の16名で、他に国衙徭丁が700程度いた。平城京役人(6500人)と推定内人口(10万人)の比を適用することにより、多賀城人口1万程度推定される. 『日本三代実録』によると貞観11年旧暦5月26日(西暦869年7月13日)に発生した貞観地震津波多賀城城下至り溺死者が1000人に達した胆沢日本後期』によると延暦21年802年)に坂上田村麻呂によって胆沢城造営されると、鎮守府多賀城より移設され、浪人4000人が配備された。最盛期弘仁元年810年)には鎮守軍卒が3800人を数えた博多 博多古代より大宰府外港として栄えた。『石清水文書』によると、仁平元年1151年)に1600家とあり、推定人口8000人。 その後鎌倉室町時代における人口詳細不明であるが、町は度重なる戦火(文永11年1274年)の元寇元弘3年1333年)の後醍醐天皇綸旨対す菊池武時挙兵)を受けながらも、貿易拠点として栄え続けた当時鎮西探題九州探題は、室見川西側鷲尾愛宕神社付近に設置されていたと推測される。『李朝成宗実録』によると15世紀末の博多李氏朝鮮都城のように人家稠密していた。1471年の『海東諸国紀』によると、博多少弐氏大友氏に分治されており、それぞれ少弐領が西南4000余戸大友領が東北6000余戸、民居合1万戸で推定人口5万人。 『籌海図編』によると16世紀博多数千家の富者がおり、天文19年1550年)に博多訪れたザビエルは、博多1万戸の大都会(推定人口5万人)と伝えている。その後永禄12年1569年)の大友宗麟毛利元就戦火博多大半焼失し3500戸(推定人口1万7000人)まで戸数減少するが、『イエズス会日本通信』によると天正7年1579年)の博多7000以上にまで復興し推定人口は35000人以上。 その後博多天正8年1580年)には龍造寺隆信によって、永禄14年1586年)には島津義久によってほぼ全焼させられるが、豊臣秀吉保護により復興する大津・坂本 大津物資水上運送繁栄した『源平盛衰記』によると以仁王の挙兵対す報復として治承4年1180年)に平重衡三井寺焼き討ちにした際、大津在家2853軒が焼失しており、推定人口1万5000人。 坂本延暦寺門前町として栄えた。『後法興院記』によると、文亀元年1501年)に数千焼失とあり、推定人口1万5000人以上。 平泉 『吾妻鏡』によると鎌倉軍と奥州軍の総勢それぞれ284千騎、17万騎であったとされるが、これは実数とは認められない。『薩藩旧記雑録収録文治5年1189年旧暦8月20日源頼朝から島津忠久への書状には鎌倉方主力軍が総勢2万人であることが書かれており、『吾妻鏡』数字は最低でも5倍程度誇張があると考えられるチャンドラーは、平安時代末の鎌倉都市人口10万人とし、軍隊人口比から平泉都市人口5万人と推定した。 なお古来よ『吾妻鏡』江戸時代の作と考えられる平泉全盛図』(平泉古図)などをもとに、往年の平泉人口京都匹敵する十数万人とする説が流布しているが、具体的な数字根拠示された例がなく, 実際都市規模はもっと小さかった考えられる鎌倉 中世鎌倉人口明記した文献存在しないが、『鎌倉年代記裏書』によると永仁元年1293年)の地震2万3024人が死亡していることから、最低2万3000人の人口鎌倉にはいたことになる。 また『吾妻鏡』によると建長4年1252年)に37274口の酒壺が町民家存在したことから、吉田東伍鎌倉には1万戸はあったと推定している。石井進はこの記述武士以外の庶民人口として5万人と見積もっている。 一方鎌倉僧侶人口に関しては、元亨3年1323年)の北条貞時13年忌に参列した禅宗僧侶は、建長寺388人、円覚寺350人、寿福寺260人、浄智寺224人以38ヵ寺合計2000人余との記録残っているが、円覚寺の例で僧侶のほぼ1.7倍に相当する下級僧・役人従者禅宗寺院暮らしていたことから、鎌倉禅宗寺だけで5400人が暮らしていたと推定される。さらに禅律僧(推定4300人)、浄土宗法華宗などを加え石井進鎌倉寺社地人口1万5000人と推定している。 河野真一郎は、近年発掘成果による武家屋敷(131.25 ha, 1万75002万9000人)と町屋(94.8 ha, 316005万6900人)の推定面積と、石井進による寺社地推定人口(1万5000人)から、鎌倉人口を64100~10万0900人と推定している。 鎌倉推定人口構成 (石井進, 河野真一朗, 1989年)地区面積人口武家屋敷 131.25 ha 17,50029,000 寺社地 15,000 町屋 94.8 ha 31,60056,900 合計 64,100100,900 なおチャンドラー採用している全盛期鎌倉推定人口20万人は、元文献が示されていない旅行ガイド採用されている数字引用しており、根拠希薄である。 雪ノ湊 『太平記』によると、康安元年1361年)の康安南海地震により在家1700余宇が海中没したとあり、推定人口8500人。 ノ浦(湊)は『平家物語』にも登場し土佐九州への航路拠点として栄えたとされる。 堺 『応永記』、『堺記』によると、応永6年1399年)の応永の乱大内義弘が堺に籠城した際、1万焼失したという。また『二水記』と『尋尊大僧正記』によると、天文元年1532年)に堺の2/3に当たる4000軒を焼失したとあり、推定戸数6000戸、推定人口3万人鹿児島入来文書』によると鹿児島本拠地置いた島津伊久応永8年1401年)に率いた軍勢3500人であり、推定人口2万1000人。 柏崎梅花無尽蔵』によると、長享2年1488年)の柏崎の様を50006000戸と伝えており、推定人口3万人伊勢山田内宮古良館記』によると、延徳3年1491年)に1000焼失、『子良日記』によると、永正14年1517年)に5000焼失、『厳助往年記』によると天文13年1544年)に6000軒が炎上したとあり、推定人口は3万人以上。 天王寺・大坂本願寺尋尊大僧正記』によると明応8年1499年)の天王寺7000軒と伝えており、推定人口は35000人。 『厳助往来記』によると永禄5年1562年)に本願寺寺内町2000焼失伝えており、推定人口1万人以上。 天正8年1580年)に寺内町焼失し本願寺大坂退去するその後豊臣秀吉によって大坂町の建設進められ秀吉死の直前には北は天満から、南は天王寺接す平野町まで広がる大坂城下町完成した安濃津 (津) 『宗長手記』によると、安濃津10余年前の津波により荒野となり、大永2年1522年)には40005000軒の家堂塔の跡が残っているのみと記している。よって最盛期推定人口2万5000人以上。 なおこの津波明応7年旧暦8月25日(西暦1498年9月20日)の明応の大地震よるものだとすると、1498年には安濃津は既に廃墟化していたことになる。ただし『細々要記』によると明応6年旧暦9月2日(西暦1497年7月26日)の津波数百消失とあり、別の原因かも知れない桑名宗長手記』によると、大永6年1526年に5,6町の長さの港に寺々家数千間とあり、仮に3000間として推定人口1万5000人。 府中 (駿河) 『実隆公記』によると享禄3年1530年)に駿河府中2000余軒とあり、推定人口1万人以上。 山口 天文19年1550年)に山口訪れたザビエルは、山口戸数1万戸以上、コスメ・デ・トーレス2万戸と記述しており、推定人口は6万人大寧寺の変町並み被害受けており、弘治3年1557年)に山口訪れたイエズス会の宣教師は、山口1万人と伝えている。 近江石寺・安土長享年後畿内兵乱記』によると、永禄6年1563年)に石場3000家屋焼失とあり、推定人口1万5000人。 『イエズス会日本通信』によると、天正9年1581年)の安土城下町50006000人の住民がおり、その後も町は拡大続けた岐阜イエズス会日本通信』のルイス・フロイスの書によると、織田信長入城以来町の繁栄バビロン城の繁栄喩え永禄12年1569年)の人口1万人と記載している。 長崎 長崎大村純忠によって永禄13年1570年)に開港され、『イエズス会日本通信』によるとガスパル・ビレラこの頃長崎人口1500人と伝えている。フランシスコ・カリヤンは天正7年1579年)に400戸以上、ルイス・フロイス天正18年1590年)に5000人、アビラ・ヒロン『日本王国記』の中で文禄3年1594年)に3000人、ルイス・デ・グスマンは『グスマン東方伝道史』の中で文禄4年1595年)に8000人、フェルナン・ゲレイロは慶長5年1600年)に40005000人、フランシスコ・カリヤンは慶長16年1611年)に1万5000人、アビラ・ヒロン慶長19年1614年)に2万5000人以上と伝えている。またライエル・ハイスベルツは『日本大王国志』の中で寛永3年1626年)の長崎キリシタン人口を4万人記述している。 春日町・府中 (直江津) 直江津越後国府が置かれ今町の湊として知られて来た。上杉謙信春日山城本拠地とした時、侍屋敷のある春日町門前町浜善光寺港町直江津(狭義府中)の三つ中心街形成され、やがて謙信治世末期には浜善行寺地区府中組み込まれた。 『景勝一代略記』によると天正6年1578年)の御館の乱の際、旧暦5月16日春日町3000軒、旧暦6月11日府中6000軒が焼失したとあり、推定人口春日町1万5000人、府中3万人。但し原田伴彦春日町直江津全体含めて広義府中6000軒と解釈し総人口3万人推定している。。 野津イエズス会日本通信』によると、天正7年1579年)に2万人を収容越中瑞泉寺瑞泉寺記録帳』によると、天正9年1581年)に佐々成政焼き討ちする前、寺27町屋3000余とあり、推定人口1万5000人。 蓮池 蓮沼城佐々成政居城として栄え、「蓮沼三千軒」と称された。『昔日録』によると、天正12年1584年)に家数2000軒とあり、推定人口1万人。 清洲駒井日記』によると、文禄3年1594年)に古くから居住している町屋は約1500軒とあり、天正年間(1580年代)の推定人口7500人以上。

※この「推定の根拠」の解説は、「近代以前の日本の都市人口統計」の解説の一部です。
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