推定の根拠
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「近代以前の日本の都市人口統計」の記事における「推定の根拠」の解説
藤原京 慶雲元年(704年)に藤原京に住む百姓1505烟へ布を賜ったとの記述が『続日本紀』にあるが、岸俊男は藤原京を12条8坊384町と考え、1505烟という数字は在地住民と京内に新たに宅地班給を受けた官人戸数(大宝元年(701年)の五位以上の官人119名、六位以下の官人推定676名)の合計であると仮定し、1家6.2人または1郷戸16.4人(天平5年(733年)の平城京の『右京計帳』断簡による数字)として、藤原京の人口を1万~3万人と推定した。 最近の研究で藤原京は岸俊男が想定したより広いことが指摘されている。鬼頭清明は、宮、市、寺院を除いた藤原京の面積(300坪)を平城京(1132坪)と比較し、後述する平城京の推定人口を14万人とすることで4万人弱、更に藤原京外となった飛鳥故宮の地を含めて、藤原京の総人口を5万~6万人と推定した。 木下正史は慶雲元年の記述は藤原京の拡張に伴う移転補償に相当すると考え、核となる300町の人口を、平城京の推定人口に関する田中琢説 に従って1万6000人と概算した。また外郭の1505烟の人口を岸俊男説の1万~3万人として合計2万6000~4万6000人、さらに京内の人口を加えて、藤原京の人口を3万~5万人と推定した。 平城京・奈良 澤田吾一は、平城京の京城の面積は道路を含めて約20.1 km2)、道路を除いて約16.3 km2と見積もり、明治4年(1871年)の金沢の人口密度(12万3363人/140万平方丈)との比較から、京城の人口を17万5000人、これに2万人以上とみられる郊外の寺院等人口を合算して平城京の人口を20万人と見積もった。 この推定人口には異論があり、例えば村井康彦は最盛期でも20万人の1/3から半分程度という推定値を出している。 一方岸俊男は、平城京の面積が藤原京のほぼ3倍であることから総戸数を約4500戸と見積もり、平城京の郷戸平均16.4人から平城京の人口を7万4000~10万人と見積もった。 鬼頭宏も725年の平城京の推定人口として岸俊男の下限推定人口(7万4000人)を採用している。 田中琢は『日本書紀』が記載する持統5年(691年)の藤原京の宅地支給基準(上戸1町、中戸半町、下戸1/4町、または成人男性8人以上が大戸、4人以上が中戸、2人以上が下戸)に着目し、1町平均成人男性8人、1成人当たりの平均家族6.7人(『右京計帳』断簡による数字)として、平城京1368町の内の居住地約1150町の人口を6万2000~10万人と試算した。 鬼頭清明は、最近の発掘調査による居宅の規模と居住人口から推定人口9万5000~17万4000人、階層構造から推定人口11万4494~19万7361人を導いている。 平城京の推定人口構成 (鬼頭清明, 1988)階層人口五位以上 1,200 六位以下の長上官 6,000 番上官 30,000 庶民 41,362~112,531 仕丁・衛士等 20,630 奴婢 16,028~27,630 合計 114,494~197,361 平安京遷都以後、奈良は南都と呼ばれるようになり、門前町として栄えた。 『尋尊大僧正記』によると、正長元年(1428年)の大乗院領・元興寺領の地口(道路に面した建物の長さ)の総計が937間2尺5寸ある。一方『田楽頭役方御領内元興寺領地口銭帳』によると、大永5年(1525年)の大乗院領・元興寺の地口総計1324間5尺に対して670軒とある。これらの地口表から畠地を除くことにより、大乗院領・元興寺領の家屋数は15世紀に400軒、16世紀に600軒と推定される。これらの院領が奈良の門前地域の1/4を占め、1戸4人と仮定し、更に門前以外の地域人口を加算することにより、14世紀の奈良の人口は7000~8000人、15世紀初頭の奈良の人口は1万人以上と推定される。 難波宮 神亀3年(726年)に聖武天皇は後期難波宮を造営し、平城京との複都制を実施した。ウィリアム・ウェイン・ファリス(William Wayne Farris)は難波の人口を平城京の半分程度の3万5000人と推定している。 大宰府 奈良時代の大宰府は東西24坊、南北22条の広さを持ち、平城京の面積の1/4程度の大きさで、九国二嶋を管轄する軍団が置かれた。 ファリスは奈良時代の総都市人口を20万人、大宰府の人口を1万5000人と推定している。 平安時代に入ると次第に兵制が縮小し、弘仁4年(813年)には大宰府管区全域(九国二嶋)の兵数は律令時代の約半数の9000人に、天長3年(826年)には1920人にまで減らされる。この時大宰府には統領8人、選士400人、衛兵200人が置かれた。その後大宰府は、遣唐使の廃止と藤原純友の乱で衰退するが、平安時代末には再び復興する。1471年の『海東諸国紀』によると、大宰府は民居2200余戸、正兵500余で、推定人口1万人以上。 長岡京 現在までの発掘調査からは、長岡京は少なくとも5万人以上の人口を有していたと推定されている。 平安京 平安時代初期・前期 天長5年(828年)の大政官符によると平安京には580余町あったとされる。阪本敦は、1町32戸、1戸平均20人として、9世紀の初期王朝時代の平安京の人口を37万人とし、遷都直後の初期平安京の人口はこれと同等かそれ以下であろうと推定した。 また大正4年(1915年)に『京都坊目誌』を完成させた碓井小三郎は、遷都当初の延暦13年(794年)の戸数・人口を8万戸40万人、ほぼ平安京が完成した弘仁9年(818年)の戸数・人口を10万戸50万人と推定している。 しかしながらこれらの推定値は一般に過多と考えられており、原田伴彦は澤田吾一の平城京推定人口(20万人)が平安京人口の上限と考えた。 社会工学研究所も900年、1100年、1300年、1400年の平安京の推定人口として澤田吾一の平城京推定人口(20万人)を採用している。 チャンドラーは洛中面積(20 km2)に当時の長安の推定人口密度(100 人/km2)を乗じた値である20万人を、800年頃の平安京の推定人口としている。 一方村井康彦は天長5年(828年)の大政官符記載の580余町、1町平均32戸、『三代実録』記載の貞観13年(871年)の1戸当たり平均人口5~6人から、平安京の人口の最低値を9万人とし、実際は1戸1家族以上と考えられることから、初期王朝時代の平安京の人口を10万~15万人と推定した。これは平安京の総面積が推定人口100万人とされる長安の1/3程度、かつ実際に市街化された地域はさらにその半分程度であることと矛盾しないとしている。 井上満郎は、鎌田元一の推定する人口増加率を参考に、 岸俊男の推定する平城京人口(7万4000人) の20%増の8万8000人を初期平安京の人口と推定した。また大政官符の記載する580町とは左京のみの数字であると前後の文章から判断し、初期王朝時代もまだ9条72坊300保1216町の構造を保っていたと考えた。貴族の官位別人数より平安京を内裏80.0町、東西両寺などの特別区42.5町、貴族・官人居住区600町、諸国から上京してきた職人たちが住む諸司厨町41町、一般市民居住区452.5町と概算し、貴族・官人の人口を延暦4年(785年)の貴族の官位分布などから863戸、諸司厨町の1町当たり戸数を22戸、一般市民居住区の1町当たり戸数を32戸、1戸当たり平均人口を6.22人として11万7372人という数字を得た。これに内裏(天皇・皇族や後宮)と東西両寺などの特別区に住む人々や、奴婢を加え、初期王朝時代の平安京の人口を12~13万人と推定した。 平安京の居住区分別推定人口構成 (井上満郎, 1992年)居住区分町数人口天皇・皇族居住区(内裏) 80.0町 ? 特別区(僧侶・神官) 42.5町 ? 貴族・官人居住区(一位~初位) 600.0町 12,273 諸司厨町 41.0町 15,033 一般市民居住区 452.5町 90,066 合計 1216町 117,372 鬼頭宏は、天長5年(828年)の大政官符の町数から推計した戸数(1万5600戸)と『三代実録』記載の貞観13年(871年)の1戸当たり平均人口(6.22~6.58人) より、西暦800年及び900年頃の平安京の人口を12万人と推定した。 近年の考古学調査により平安京の北西、南西、南東の端では、そもそも整備されたのは条坊制のための道路だけで、遷都当初から市街地化していなかったことが判明している。また相国寺境内の遺跡調査から、平安時代前期には平安京北郊への拡大が既に始まっていた可能性が高い。天長5年(828年)の大政官符に登場する580町は左京の町数と考えられ、理論上の608町との差28町は、市街化されていなかった左京の南東端(鴨川)であると解釈される。 平安時代中期・後期 一般には平安時代中期の10世紀頃より平安京の北、東への膨張が始まったと考えられている。慶滋保胤の『池亭記』には、右京が衰退し、左京の北半分には上級貴族の大邸宅が林立している10世紀末の平安京が描かれており、チャンドラーは10世紀後半より平安京は人口減少局面に入ったとして1000年頃の人口を17万5000人と推定している。 しかしながら考古学的調査では、元々右京は開発困難な湿地帯が未開発のまま残されており、右京の幹線道路沿いに町屋が島状・帯状に立ち並ぶような、田園と町通りが混在した状況が平安遷都当初から続いていたと推定され、むしろ市街は洛外へ膨張していた。やがて鴨川の東に白河が造営された。平安時代後期に入ると、南側には鳥羽に離宮が造営され、その結果左京南部に初めて市街が形成される。また平安時代中期まで維持・管理が続けられた条坊制は11世紀半ばに終焉する。 村井康彦は、『日本略記』にみられる寛弘8年(1011年)と万寿元年(1024年)に起こった火災の記録から、1町当たりの平均戸数を30~70家と推定した。当時の町数を天長5年(828年)の大政官符の町数(580余町)より若干増えた600余町と仮定し、また『三代実録』記載の貞観13年(871年)の1戸当たり平均人口(左京3.9人, 右京6.3人)とより、王朝時代の平安京の人口を17万~20万人と推定した。 平安時代後期になると武士階級が京都に進出し、源氏は六条堀川と室町に、平家は洛東の六波羅に本拠地を構えた。『平家物語』によると平家一族の最盛期には六波羅一帯に一族郎党の家屋が5200戸に達した。 『百練抄』や『玉葉』、『方丈記』によると安元3年(1177年)の大火(太郎焼亡)では京都の1/3に相当する180余町2万家が焼失し、治承2年(1178年)の次郎焼亡では七条界隈の30数町が焼失した。 坂本敦はこの時焼け残った町数を天長5年(828年)の平安京の町数580余町から400町と推定し、1町当たり55.5家、1家10人として平安末期の平安京の人口を42万2000人と推定した。 ただしこの推定値は一般には過多と考えられている。 太郎焼亡では大極殿が焼け落ち、以降再建されることはなく、治承4年(1180年)には一時的に福原京へ遷都される。またその後の養和の飢饉の影響で、養和2年(1182年)には左京の死体の数が旧暦4月~5月の2ヶ月間で4万2300余を数えたという記述が『方丈記』にある。チャンドラーはこの時期京都の人口が10万人にまで減少したと推定している。 鬼頭宏は平安時代を通じてそれほど平安京の人口に変動はなく、初期王朝時代の推定人口(12万人)を平安時代末期の西暦1150年の平安京の人口としている。 鎌倉時代 鎌倉時代の京都の町並みの変遷については資料が限られており衰退の程度には諸説あるが、13世紀中ごろには右京の3/4が田園化していたと考えられる。碓井小三郎は、鎌倉時代の京都の人口を、9万~10万人と推定している。 チャンドラーは、元弘3年(1333年)の京都の人口を2万人と推定し、そこから1200年、1250年、1300年の推定人口を10万人、7万人、4万人と補完して求めている。 室町時代前期 『師守記』によると貞治4年(1367年)に病院建設のための資金1万疋を集めるため、各家から10文を集めたという記述があり、当時京都に暮らす一般庶民は1万戸約5万人と推定される。高尾一彦、林屋辰三郎、松浦玲らは公家、武家、寺社の関係者人口をそれぞれ3万~4万人、1万人、1万人と推定し、14世紀後半から15世紀前半の京都の人口を10万人と推定している。 また『東寺王代記』によると応安5年(1372年)の火災では382町2万余家が焼失したとある。 応仁の乱~戦国時代前期 応仁の乱に先立つ長禄・寛正の飢饉では、『碧山日録』によると寛正2年(1461年)の2ヶ月間で京中にて8万2千人の死体が数えられ、鴨川の水流が死体で堰き止められるだったという。 応仁元年(1467年)に始まる応仁の乱では、『応仁記』によると上京だけで二条から霊辻、大舎人から室町までの100町、3万余宇が灰燼に帰したとあり、チャンドラーは乱直前の京都の人口を15万人と推定している。 なお1471年の『海東諸国紀』は京都の戸数を20万6千余と伝えているが、戸数としては多過ぎるため、人口の間違いかもしれない。 碓井小三郎やチャンドラーは応仁の乱が終結した文明9年(1477年)の京都の人口を、4万人と推定する。 戦国時代の京都の町並みは、上京と下京が室町通1本で繋がる状態にまで衰退しているが、15世紀後半の京都の人口については、チャンドラーのように4万人と低く見積もる説 から、高尾一彦らのように20万人近くと高く見積もる説まである。 『後慈眼院殿記』によると、明応3年(1494年)の火災では下京30余町1万戸が焼失したという。また明和9年(1500年)には上京が被災し、焼失した家屋は1万5000軒から4万軒と、文献によって数字が異なるが、原田伴彦はこの時期の京都の人口を2万戸10万人と推定する。 一方高尾一彦らは15世紀末の京都は、上京6000~7000戸、下京1万~1万数千戸の合計2万戸10万人の商工民人口がおり、これに公家、武士、寺社関係人口と、数万人に及ぶ散所、河原人口を加えれば、上下京の人口は合計15万~18万人に達したと推定している。 戦国時代後期~安土桃山時代 天文20年(1551年)に京都を訪れたザビエルは書簡の中で、京都はリスボンよりも大きく、9万6000戸の戸数があると伝えているが、この数字は山城国全域の戸数と思われる。織田信長の保護のもと京都は繁栄を取り戻し、元亀2年(1571年)に京都を訪れたイエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラは、かつて京都は30万戸を誇ったが現在は6万戸のみであると『イエズス会日本通信』に記述しており、安土桃山時代の京都の人口をチャンドラーは30万人、 高尾一彦らは控えめに20万人以上と推定している。 江戸時代以降の京都の町並みは、豊臣秀吉により復興されたものである。碓井小三郎は、慶長3年(1598年)の京都の人口を50万人と推定している。 多賀城 『日本後紀』によると、延暦17年(798年)に陸奥国府に居住する上級官人は国守、介、大掾、小掾、大目、少目2人(以上国司)、博士、医師、史生5人、守慊仗の16名で、他に国衙徭丁が700人程度いた。平城京の役人(6500人)と推定京内人口(10万人)の比を適用することにより、多賀城の人口は1万人程度と推定される. 『日本三代実録』によると貞観11年旧暦5月26日(西暦869年7月13日)に発生した貞観地震の津波が多賀城城下に至り、溺死者が1000人に達した。 胆沢 『日本後期』によると延暦21年(802年)に坂上田村麻呂によって胆沢城が造営されると、鎮守府が多賀城より移設され、浪人4000人が配備された。最盛期の弘仁元年(810年)には鎮守軍卒が3800人を数えた。 博多 博多は古代より大宰府の外港として栄えた。『石清水文書』によると、仁平元年(1151年)に1600家とあり、推定人口は8000人。 その後、鎌倉室町時代における人口の詳細は不明であるが、町は度重なる戦火(文永11年(1274年)の元寇や元弘3年(1333年)の後醍醐天皇の綸旨に対する菊池武時の挙兵)を受けながらも、貿易の拠点として栄え続けた。当時鎮西探題や九州探題は、室見川の西側の鷲尾愛宕神社付近に設置されていたと推測される。『李朝成宗実録』によると15世紀末の博多は李氏朝鮮の都城のように人家が稠密していた。1471年の『海東諸国紀』によると、博多は少弐氏と大友氏に分治されており、それぞれ少弐領が西南の4000余戸、大友領が東北の6000余戸、民居合計1万戸で推定人口5万人。 『籌海図編』によると16世紀の博多は数千家の富者がおり、天文19年(1550年)に博多を訪れたザビエルは、博多は1万戸の大都会(推定人口5万人)と伝えている。その後永禄12年(1569年)の大友宗麟と毛利元就の戦火で博多の大半が焼失し、3500戸(推定人口1万7000人)まで戸数が減少するが、『イエズス会日本通信』によると天正7年(1579年)の博多は7000戸以上にまで復興し、推定人口は3万5000人以上。 その後博多は天正8年(1580年)には龍造寺隆信によって、永禄14年(1586年)には島津義久によってほぼ全焼させられるが、豊臣秀吉の保護により復興する。 大津・坂本 大津は物資の水上運送で繁栄した。『源平盛衰記』によると以仁王の挙兵に対する報復として治承4年(1180年)に平重衡が三井寺を焼き討ちにした際、大津の在家2853軒が焼失しており、推定人口1万5000人。 坂本は延暦寺の門前町として栄えた。『後法興院記』によると、文亀元年(1501年)に数千軒焼失とあり、推定人口は1万5000人以上。 平泉 『吾妻鏡』によると鎌倉軍と奥州軍の総勢はそれぞれ28万4千騎、17万騎であったとされるが、これは実数とは認められない。『薩藩旧記雑録』収録の文治5年(1189年)旧暦8月20日の源頼朝から島津忠久への書状には鎌倉方の主力軍が総勢2万人であることが書かれており、『吾妻鏡』の数字は最低でも5倍程度の誇張があると考えられる。 チャンドラーは、平安時代末の鎌倉の都市人口を10万人とし、軍隊の人口比から平泉の都市人口を5万人と推定した。 なお古来より『吾妻鏡』や江戸時代の作と考えられる『平泉全盛図』(平泉古図)などをもとに、往年の平泉の人口を京都に匹敵する十数万人とする説が流布しているが、具体的な数字の根拠が示された例がなく, 実際の都市規模はもっと小さかったと考えられる。 鎌倉 中世の鎌倉の人口を明記した文献は存在しないが、『鎌倉年代記裏書』によると永仁元年(1293年)の地震で2万3024人が死亡していることから、最低2万3000人の人口が鎌倉にはいたことになる。 また『吾妻鏡』によると建長4年(1252年)に3万7274口の酒壺が町屋民家に存在したことから、吉田東伍は鎌倉には1万戸はあったと推定している。石井進はこの記述を武士以外の庶民の人口として5万人と見積もっている。 一方鎌倉の僧侶人口に関しては、元亨3年(1323年)の北条貞時の13年忌に参列した禅宗の僧侶は、建長寺388人、円覚寺350人、寿福寺260人、浄智寺224人以下38ヵ寺合計2000人余との記録が残っているが、円覚寺の例で僧侶のほぼ1.7倍に相当する下級僧・役人・従者が禅宗寺院で暮らしていたことから、鎌倉の禅宗寺だけで5400人が暮らしていたと推定される。さらに禅律僧(推定4300人)、浄土宗、法華宗などを加え、石井進は鎌倉寺社地の人口を1万5000人と推定している。 河野真一郎は、近年の発掘成果による武家屋敷(131.25 ha, 1万7500~2万9000人)と町屋(94.8 ha, 3万1600~5万6900人)の推定面積と、石井進による寺社地の推定人口(1万5000人)から、鎌倉の人口を6万4100~10万0900人と推定している。 鎌倉の推定人口構成 (石井進, 河野真一朗, 1989年)地区分面積人口武家屋敷 131.25 ha 17,500~29,000 寺社地 15,000 町屋 94.8 ha 31,600~56,900 合計 64,100~100,900 なおチャンドラーが採用している全盛期の鎌倉の推定人口20万人は、元文献が示されていない旅行ガイドに採用されている数字を引用しており、根拠が希薄である。 雪ノ湊 『太平記』によると、康安元年(1361年)の康安南海地震により在家1700余宇が海中に没したとあり、推定人口8500人。 雪ノ浦(湊)は『平家物語』にも登場し、土佐、九州への航路の拠点として栄えたとされる。 堺 『応永記』、『堺記』によると、応永6年(1399年)の応永の乱で大内義弘が堺に籠城した際、1万軒焼失したという。また『二水記』と『尋尊大僧正記』によると、天文元年(1532年)に堺の2/3に当たる4000軒を焼失したとあり、推定戸数6000戸、推定人口3万人。 鹿児島 『入来文書』によると鹿児島に本拠地を置いた島津伊久が応永8年(1401年)に率いた軍勢は3500人であり、推定人口2万1000人。 柏崎 『梅花無尽蔵』によると、長享2年(1488年)の柏崎の様を5000~6000戸と伝えており、推定人口3万人。 伊勢山田 『内宮古良館記』によると、延徳3年(1491年)に1000家焼失、『子良館日記』によると、永正14年(1517年)に5000軒焼失、『厳助往年記』によると天文13年(1544年)に6000軒が炎上したとあり、推定人口は3万人以上。 天王寺・大坂本願寺 『尋尊大僧正記』によると明応8年(1499年)の天王寺は7000軒と伝えており、推定人口は3万5000人。 『厳助往来記』によると永禄5年(1562年)に本願寺の寺内町2000軒焼失と伝えており、推定人口は1万人以上。 天正8年(1580年)に寺内町は焼失し、本願寺が大坂を退去する。その後豊臣秀吉によって大坂の町の建設が進められ、秀吉の死の直前には北は天満から、南は天王寺に接する平野町まで広がる大坂城下町が完成した。 安濃津 (津) 『宗長手記』によると、安濃津は10余年前の津波により荒野となり、大永2年(1522年)には4000~5000軒の家堂塔の跡が残っているのみと記している。よって最盛期の推定人口は2万5000人以上。 なおこの津波が明応7年旧暦8月25日(西暦1498年9月20日)の明応の大地震によるものだとすると、1498年には安濃津は既に廃墟と化していたことになる。ただし『細々要記』によると明応6年旧暦9月2日(西暦1497年7月26日)の津波で数百軒消失とあり、別の原因かも知れない。 桑名 『宗長手記』によると、大永6年(1526年)に5,6町の長さの港に寺々家数千間とあり、仮に3000間として推定人口は1万5000人。 府中 (駿河) 『実隆公記』によると享禄3年(1530年)に駿河府中は2000余軒とあり、推定人口1万人以上。 山口 天文19年(1550年)に山口を訪れたザビエルは、山口の戸数を1万戸以上、コスメ・デ・トーレスは2万戸と記述しており、推定人口は6万人。 大寧寺の変で町並みは被害を受けており、弘治3年(1557年)に山口を訪れたイエズス会の宣教師は、山口を1万人と伝えている。 近江石寺・安土 『長享年後畿内兵乱記』によると、永禄6年(1563年)に石場寺3000家屋焼失とあり、推定人口1万5000人。 『イエズス会日本通信』によると、天正9年(1581年)の安土城下町は5000~6000人の住民がおり、その後も町は拡大を続けた。 岐阜 『イエズス会日本通信』のルイス・フロイスの書によると、織田信長入城以来の町の繁栄をバビロン城の繁栄に喩え、永禄12年(1569年)の人口を1万人と記載している。 長崎 長崎は大村純忠によって永禄13年(1570年)に開港され、『イエズス会日本通信』によるとガスパル・ビレラはこの頃の長崎の人口を1500人と伝えている。フランシスコ・カリヤンは天正7年(1579年)に400戸以上、ルイス・フロイスは天正18年(1590年)に5000人、アビラ・ヒロンは『日本王国記』の中で文禄3年(1594年)に3000人、ルイス・デ・グスマンは『グスマン東方伝道史』の中で文禄4年(1595年)に8000人、フェルナン・ゲレイロは慶長5年(1600年)に4000~5000人、フランシスコ・カリヤンは慶長16年(1611年)に1万5000人、アビラ・ヒロンは慶長19年(1614年)に2万5000人以上と伝えている。またライエル・ハイスベルツは『日本大王国志』の中で寛永3年(1626年)の長崎のキリシタン人口を4万人と記述している。 春日町・府中 (直江津) 直江津は越後国府が置かれ、今町の湊として知られて来た。上杉謙信が春日山城を本拠地とした時、侍屋敷のある春日町、門前町の浜善光寺、港町の直江津(狭義の府中)の三つの中心街が形成され、やがて謙信治世末期には浜善行寺地区が府中に組み込まれた。 『景勝一代略記』によると天正6年(1578年)の御館の乱の際、旧暦5月16日に春日町3000軒、旧暦6月11日に府中6000軒が焼失したとあり、推定人口は春日町1万5000人、府中3万人。但し原田伴彦は春日町・直江津全体を含めて広義の府中6000軒と解釈し、総人口3万人と推定している。。 野津 『イエズス会日本通信』によると、天正7年(1579年)に2万人を収容。 越中瑞泉寺 『瑞泉寺記録帳』によると、天正9年(1581年)に佐々成政が焼き討ちする前、寺27、町屋3000余とあり、推定人口1万5000人。 蓮池 蓮沼城は佐々成政の居城として栄え、「蓮沼三千軒」と称された。『昔日北華録』によると、天正12年(1584年)に家数2000軒とあり、推定人口1万人。 清洲 『駒井日記』によると、文禄3年(1594年)に古くから居住している町屋は約1500軒とあり、天正年間(1580年代)の推定人口は7500人以上。
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