武家人口を含めた最盛期の江戸の推定総人口
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「江戸の人口」の記事における「武家人口を含めた最盛期の江戸の推定総人口」の解説
江戸の総人口については詳細な記録が残っていないが、例えば『撰要類集』では武家方寺社旅人100万人、江戸表町人50万人、合わせた人口150万人として必要な米数の計算を行っている。文政9年(1826年)に江戸を訪ねたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、『日本』の中で武家を除いた江戸の一般人の人口を131万人(高橋景保からの伝聞と推測される)、武家を含めた江戸の人口は最低でも150万人だろうと記載している。また佐藤信淵は『宇内混合秘策』の中で江戸の人口を150万〜160万人と記し、三河屋弥兵次は『煙草諸国名産』の中で弘化3年(1846年)の江戸の人口を百十余万人と記し、フランスの外交官として安政5年(1858年)に来日したド・モージュ侯爵アルフレッド(Alfred, Marquis de Moges)は、『1857、1858年のグロ男爵使節団の中国・日本回想録』の中で江戸の人口を250万人と記している。安政6年(1859年)に初来日したラザフォード・オールコックの『大君の都』や万延元年(1860年)に初来日したロバート・フォーチュンの『江戸と北京』では、江戸の人口は200万人と記載されている。慶応元年(1865年)に来日したハインリヒ・シュリーマンは、『日本中国旅行記』の中でアメリカの代理行使アントン・ポートマンから江戸の人口は250万人を超えることはないと聞かされたと記載している。以上のほか、明治2年(1869年)に東京の人口調査を実施した江藤新平(1869年)は、江戸の往年の人口として300万人はあり得ないが、200万人程度ではないかと記述している。そこから明治2年の推定市中人口68万人を除いた132万人をいわゆる士族人口であると推定した。また『吹塵録』で江戸の人口をまとめた勝海舟(1897年)は、江戸時代の江戸の人口を150万人ほどと述べている。 ただし、これらはいずれも根拠は示されていない。 150万〜200万人説 (町方人口100万人以上説) 小宮山綏介(1891年)は、享保7年(1722年)の統計を元に大名と家族の人口を1506人(264家×5.707人/戸(明治5〜7年の華族平均))、諸藩の在府者を11万9594人(大名石高1755万0104石×150人/1万石の半数)、旗本御家人と家族の人口を8万3403人(1万9522家×4.2746人/家(明治5〜7年の士族平均))、その家来・従事者5万8936人(旗本御家人石高310万1932石×1.9人/100石)、合計26万3466人と推定している。また天保14年の調査に対しては、大名と家族の人口を1602人(267家×5.707人/戸)、諸藩の在府者を13万7250人(1830万石×150人/1万石の半数)、旗本御家人と家族の人口を9万4041人(2万2000家×4.2746人/家)、その家来・従事者6万6420人(349万5804石×1.9人/100石)、合計29万9313人程度と推定している。また或人の試算として、明治5年の全国士卒族194万4557人の15%に相当する29万1684人という値を紹介している。一方町方人口に関しては、天保14年(1843年)の町方戸数を30万戸に4.2人/戸を乗じた126万人と推定し、そこへ天保14年の武家推定人口29万9313人を加えた155万9313人を江戸の人口と推定している。 三田村鳶魚(1921年)は、天保13年(1842年)における江戸の下肥金3万4590両を1人当たり下肥1年分銀2匁の相場で割ることで、106万4700人という人口を算出した。これらの下肥の金銭のやりとりは、江戸の町人名主との間で行われたものであり、武家屋敷や寺院等を含まないと推定している。三田村鳶魚本人は江戸の武家人口の推定を行っていないが、武家人口推定に関する小宮山綏介説を引用しており、また天明6年(1786年)や天保8年(1836年)の被救済人口128万5300人、128万4815人を実数とする考えに賛同しており、大筋において小宮山説の150万人以上を支持している。 東京市の市長を務めた後藤新平(1922年)は、天明6年頃の被救済人口136万7880人に武家人・無籍者等を加えた約200万人を、江戸の総人口と推定した。 阪本敦(1928年)は、1万石に付江戸屋敷200人を仮定し、『甲子夜話』記載の享保7年(1722年)の総石高2088万5784石から武家陪臣・使用人人口を41万7716人、1家平均10人として大名2640人、1家平均6人として旗本・御家人・その他13万8504人、江戸城1000人を加え、武家人口を56万人とし、これに天明6年頃の被救済人口136万7880人を加えた人口190万〜200万人を江戸の総人口と推定した。 110万〜140万人説 吉田東伍(1923年)は弘化、嘉永の時期に江戸に輸入された米高の年平均が140万石であることに着目し、1人1石と仮定して江戸の総人口は約130万〜140万人であり、町人等は出稼人等を含め70万人、武家方の人口は町人と匹敵する位(武家人口50万人、武家奉公人10万人)と推定した。また徳川時代の江戸の人口として150万人や200万人はあり得ないと結論している。 鷹見安二郎(1940年)は、明治初年の華族・士族人口や石高の統計などをもとに、諸藩の在府者と家族の人口を約36万人(諸藩の武家人口180万人の2割(松本藩水野家、松本藩戸田家、古河藩における江戸詰割合平均)、幕府配下の武家と家族の人口を約25万9552人(437万9934石(明治元年の秩禄処分から計算される天領推定石高)×0.9(人件費外を1割とする)×1人/15石(金沢・名古屋・和歌山藩の平均武家人口)=32万4440人の8割)と推定した。また江戸が最も膨張した天保の頃の総人口を、町奉行支配下の町人(出稼人共)58万7458人、神官僧侶山伏非人他5万7805人、諸大名所属武家36万人、幕府氏直属の旗本御家人所属武家25万9552人、町奉行支配範囲外の町人百姓等4万3500人、合計130万8315人と見積もっている。その上で吉田東伍説により江戸150万人以上説は否定できるが、100万人前後、あるいは100万人以下という説は容認できないと結論している。 天保年中の江戸の総人口 (鷹見安二郎)内訳人口町奉行支配下の町人 (出稼人共) 587,458 神官・僧侶・山伏・非人・其他 57,805 諸大名所属 360,000 幕府氏直属の旗本家人所属 259,552 町奉行支配範囲外の町人・百姓等 43,500 合計 1,308,315 関山直太郎(1958年)は、武家人口を旗本御家人と家族約11万5千人、その家来・従属者約10万人、諸藩の在府者と家族約18万人、幕府直属の足軽・奉公人等約10万人、浪人2万〜3万人、合計約52万〜53万人と推定した。またこれに町人53万〜54万人、無籍者を加えた110万人を江戸の総人口と推定した。 北島正元(1958年, 1973年)は、江戸の武士人口は大体町人人口と同じであるというのを通説とし、享保9年(1724年)の町方人口46万4000余名に推定武士人口約50万人を加え、この頃に100万ないしそれに近い人口を持ち、江戸が世界第一の都市になったと推定した。また町方人口50万人に武士人口50万人、その他僧侶・神官・山伏・吉原・穢多非人を加えると100万人を越すことになり、最盛期には多く見積もって120万〜130万人に達したと推定した。 鮫島龍行(1962年)は安政年中(1855年頃)の江戸の総人口を町方人口の倍の115万人と推定し、計外人口や出稼ぎ人等を加えて江戸の総人口を最大限にみて120万人と見積もっている。 内藤昌(1966年)は吉田東伍説を支持し、武家地65万人、寺社地5万人、町人地60万人、総計130万人と推定した。 江戸の人口密度(内藤昌)住居種別概算人口面積(km2)人口密度(人/km2)武家地 650,000 38,653 16,816 寺社地 50,000 8.799 5,682 町人地 600,000 8.913 67,317 総計 1,300,000 56.365 23,064 斎藤誠治(1984年)は1650年頃の江戸の人口を43万人、1750年頃の江戸の人口を122万人、1850年頃の江戸の人口を115万人と推定した。但し論文中には推定の根拠が示されていない。以下斎藤誠治による三都の推定総人口遷移を表にまとめる。1873年の人口は『日本地誌提要』、1879年の人口は『明治十一年共武政表』による。 江戸時代・明治初期の三都の推定総人口遷移(斎藤誠治)主要都市1650年1750年1850年1873年1879年江戸 430,000 1,220,000 1,150,000 595,905 671,335 大坂 220,000 410,000 330,000 271,992 291,565 京都 430,000 370,000 290,000 238,663 232,683 鬼頭宏(1989年)は江戸の人口を町方人口の2倍と見積もっており、享保6年(1721年)に町方人口だけで50万1394人を数えた時、総人口も100万人を超えたと推定した。また最盛期の人口として鷹見安二郎の130万人説を間接的に引用している。 100万人以上説 今井登志喜(1932年)は、明治10年頃の東京の人口が80万人に過ぎないことから江戸の伝説的な人口の数字に注意を喚起したが、最盛期の江戸の人口が100万人を超えていたことは間違いないだろうと述べている。 『大阪市史』を編纂した幸田成友(1934年)は、明治5年(1872年)の壬申戸籍の士卒族人口から考えて定府の武家人口は50万人未満、町人を加えて100万人前後と推定した。 100万人未満説 阪谷芳郎(1915年)は、明治10年頃の東京の人口が80万人に過ぎないことから江戸の伝説的な人口は信用できないと論じ、西洋の諸都市との比較から100万人は超えなかったであろうとする。 過去の人口推定値として海外でしばしば引用されるターシャス・チャンドラー(1987年)は、町奉行支配下の町方人口の3/8程度を武士人口とし、武家人口を18万5000人(1804年)から約21万5000人(1854年)、江戸の総人口を68万5000人(1804年)から約78万8000人(1854年)と見積もっている。
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