武家人口を含めた最盛期の江戸の推定総人口とは? わかりやすく解説

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武家人口を含めた最盛期の江戸の推定総人口

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:54 UTC 版)

江戸の人口」の記事における「武家人口を含めた最盛期の江戸の推定総人口」の解説

江戸総人口については詳細な記録残っていないが、例えば『撰要類集』では武家方寺社旅人100万人、江戸表町人50万人合わせた人口150万人として必要な数の計算行っている。文政9年(1826年)に江戸訪ねたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、『日本』の中で武家除いた江戸一般人人口131万人(高橋景保からの伝聞推測される)、武家含めた江戸の人口は最低でも150万人だろうと記載している。また佐藤信淵は『宇内混合秘策』の中で江戸の人口150〜160万人記し三河屋弥兵次は『煙草諸国名産』の中で弘化3年(1846年)の江戸の人口を百十余万人記しフランス外交官として安政5年(1858年)に来日したド・モージュ侯爵アルフレッド(Alfred, Marquis de Moges)は、『1857、1858年グロ男爵使節団中国・日本回想録』の中で江戸の人口250万人記している。安政6年(1859年)に初来日したラザフォード・オールコックの『大君の都』や万延元年(1860年)に初来日したロバート・フォーチュンの『江戸北京』では、江戸の人口200万人記載されている。慶応元年(1865年)に来日したハインリヒ・シュリーマンは、『日本中国旅行記』の中でアメリカ代理行使アントン・ポートマンから江戸の人口250万人超えることはないと聞かされたと記載している。以上のほか、明治2年(1869年)に東京人口調査実施した江藤新平(1869年)は、江戸往年の人口として300万人あり得ないが、200万人程度ではないか記述している。そこから明治2年推定市中人口68万人除いた132万人いわゆる士族人口であると推定した。また『吹塵録』で江戸の人口をまとめた勝海舟(1897年)は、江戸時代江戸の人口150万人ほどと述べている。 ただし、これらはいずれ根拠示されていない150200万人説 (町方人口100万人以上説) 小宮山綏介(1891年)は、享保7年(1722年)の統計元に大名家族人口1506人(264家×5.707人/戸(明治5〜7年華族平均))、諸藩在府者を119594人(大名石高17550104石×150人/1万石半数)、旗本御家人家族人口を83403人(1万9522家×4.2746人/家(明治5〜7年士族平均))、その家来従事者5万8936人(旗本御家人石高3101932石×1.9/100石)、合計263466人と推定している。また天保14年調査に対しては、大名家族人口1602人(267家×5.707人/戸)、諸藩在府者を137250人(1830万石×150人/1万石半数)、旗本御家人家族人口を94041人(2万2000家×4.2746人/家)、その家来従事者66420人(3495804石×1.9/100石)、合計299313人程度推定している。また或人の試算として、明治5年全国士卒1944557人の15%に相当する291684人という値を紹介している。一方町方人口に関しては、天保14年(1843年)の町方戸数30万戸4.2人/戸を乗じた126万人推定し、そこへ天保14年武家推定人口299313人を加えた1559313人を江戸の人口推定している。 三田村鳶魚(1921年)は、天保13年(1842年)における江戸下肥金34590両を1人当たり下肥1年分銀2匁の相場で割ることで、1064700人という人口算出した。これらの下肥金銭やりとりは、江戸の町人名主との間で行われたものであり、武家屋敷寺院等を含まない推定している。三田村鳶魚本人江戸武家人口推定行っていないが、武家人口推定に関する小宮山綏介説を引用しており、また天明6年(1786年)や天保8年(1836年)の被救済人口1285300人、1284815人を実数とする考え賛同しており、大筋において小宮山説の150万人以上を支持している。 東京市市長務めた後藤新平(1922年)は、天明6年頃の被救済人口1367880人に武家人・無籍者等を加えた200万人を、江戸総人口推定した阪本敦(1928年)は、1万石に付江戸屋敷200人を仮定し『甲子夜話』記載享保7年(1722年)の総石高20885784石から武家陪臣使用人人口417716人、1家平均10人として大名2640人、1家平均6人として旗本御家人・その他138504人、江戸城1000人を加え武家人口56万人とし、これに天明6年頃の被救済人口1367880人を加えた人口190200万人江戸総人口推定した。 110〜140万人吉田東伍(1923年)は弘化嘉永時期江戸輸入された米高の年平均が140万石であることに着目し1人1石と仮定して江戸総人口は約130〜140万人であり、町人等は出稼人等を含め70万人武家方人口町人匹敵する位(武家人口50万人武家奉公人10万人)と推定した。また徳川時代の江戸人口として150万人200万人あり得ない結論している。 鷹見二郎(1940年)は、明治初年華族士族人口石高統計などをもとに、諸藩在府者と家族人口を約36万人(諸藩武家人口180万人の2割(松本藩水野家松本藩戸田家古河藩における江戸詰割合平均)、幕府配下武家家族人口を約259552人(4379934石(明治元年秩禄処分から計算される天領推定石高)×0.9(人件費外を1割とする)×1人/15石(金沢名古屋和歌山藩平均武家人口)=324440人の8割)と推定した。また江戸が最も膨張した天保の頃の総人口を、町奉行支配下町人(出稼人共)587458人、神官僧侶山伏非人5万7805人、諸大名所属武家36万人幕府直属旗本御家人所属武家259552人、町奉行支配範囲外町人百姓等43500人、合計1308315人と見積もっている。その上で吉田東伍説により江戸150万人以上説は否定できるが、100万人前後、あるいは100万人以下という説は容認できない結論している。 天保年中江戸総人口 (鷹見二郎)内訳人口町奉行支配下町人 (出稼人共) 587,458 神官僧侶山伏非人・其他 57,805 諸大名所属 360,000 幕府直属旗本家人所属 259,552 町奉行支配範囲外町人百姓43,500 合計 1,308,315 関山太郎(1958年)は、武家人口旗本御家人家族115千人、その家来従属者約10万人、諸藩在府者と家族18万人幕府直属足軽奉公人等約10万人、浪人2万〜3万人合計5253万人推定した。またこれに町人5354万人無籍者加えた110万人江戸総人口推定した北島正元(1958年, 1973年)は、江戸武士人口は大体町人人口と同じであるというのを通説とし、享保9年(1724年)の町方人口464000余名推定武士人口50万人加えこの頃100万ないしそれに近い人口持ち江戸世界第一都市になった推定した。また町方人口50万人武士人口50万人、その他僧侶神官山伏吉原穢多非人加えると100万人を越すことになり、最盛期には多く見積もって120130万人達した推定した鮫島龍行(1962年)は安政年中(1855年頃)の江戸総人口町方人口の倍の115万人推定し、計外人口や出稼ぎ人等を加えて江戸総人口最大限にみて120万人見積もっている。 内藤昌(1966年)は吉田東伍説を支持し武家地65万人寺社地5万人、町人地60万人総計130万人推定した江戸の人口密度(内藤昌)住居種別概算人口面積(km2)人口密度(人/km2)武家地 650,000 38,653 16,816 寺社地 50,000 8.799 5,682 町人地 600,000 8.913 67,317 総計 1,300,000 56.365 23,064 斎藤誠治(1984年)は1650年頃の江戸の人口43万人1750年頃の江戸の人口122万人1850年頃の江戸の人口115万人推定した。但し論文中には推定の根拠示されていない。以下斎藤誠治による三都推定総人口遷移を表にまとめる。1873年人口は『日本地誌提要』、1879年人口は『明治十一年共武政表』による。 江戸時代・明治初期三都推定総人口遷移(斎藤誠治)主要都市1650年1750年1850年1873年1879年江戸 430,000 1,220,000 1,150,000 595,905 671,335 大坂 220,000 410,000 330,000 271,992 291,565 京都 430,000 370,000 290,000 238,663 232,683 鬼頭宏(1989年)は江戸の人口町方人口の2倍と見積もっており、享保6年(1721年)に町方人口だけで501394人を数えた時、総人口100万人を超えた推定した。また最盛期人口として鷹見二郎130万人説を間接的に引用している。 100万人以上説 今井登志喜(1932年)は、明治10年頃の東京人口80万人に過ぎないことから江戸伝説的な人口数字注意喚起したが、最盛期江戸の人口100万人を超えていたことは間違いないだろうと述べている。 『大阪市史』を編纂した幸田成友(1934年)は、明治5年(1872年)の壬申戸籍士卒族人口から考えて定府武家人口50万人未満町人加えて100万人前後と推定した100万未満阪谷芳郎(1915年)は、明治10年頃の東京人口80万人に過ぎないことから江戸伝説的な人口信用できない論じ西洋の諸都市との比較から100万人は超えなかったであろうとする。 過去の人推定値として海外でしばしば引用されるターシャス・チャンドラー(1987年)は、町奉行支配下町方人口3/8程度武士人口とし、武家人口185000人(1804年)から約215000人(1854年)、江戸総人口685000人(1804年)から約788000人(1854年)と見積もっている。

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