武家の家格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 00:21 UTC 版)
武家においては江戸時代に家格が定まり、一万石以上の石高をもつ有する大名、一万石以下で将軍の直臣たる旗本・御家人、諸藩の藩士を中心としてさらに細かい家格が定められていった。 特に大名の家格では、御三家の大廊下、国主大名の大広間、譜代大名などの帝鑑の間、雁間、外様大名の柳の間など、将軍との親疎、大名の有する家系の由緒や知行する石高(表高)によって、参勤交代による江戸城登城の際にあてがわれる部屋(伺候席)が区別された。さらに四品叙任などの官位任官(極位極官)や賜諱(偏諱の授与)をはじめとするあらゆる処遇が階層化されていた。 幕府の直属家臣たる旗本・御家人の場合では、上級旗本は官位を与えられ重職に任ぜられたのに対し、中堅・下級旗本は無位無官の上、低い役職に補せられた。さらに、旗本には将軍謁見を許されたのに対し、御家人は許されなかったなど、幕府の直臣の間でも細かい家格が定められた。さらに、諸藩に至っては家老以下の役職は世襲化され、藩士内で家格が階層化されていた他、正規の家臣たる上士と藩の支配地に在住する土着の武士や有力百姓により構成された郷士という身分が形成され、大名の領地においても家格により強い身分統制が敷かれた。 一方で、幕府では窮乏した旗本・御家人が有力商人から借金する代わりに、その子弟を養子とする慣習が拡がり、旗本株、御家人株として町人が士分を得る機会が拡がった。また、財政の苦しくなった大名家などにおいても、豪商などから借金し返済できぬ事態が発生するにつれ、豪商を士分として待遇した他、藩内の豪農や有力町人に対して郷士株を販売し郷士の待遇を与えるなどの家格付与が行われた。 また、こうした旗本・御家人株の売買は 使用人や中間奉公などとして働き、そこでの働きぶり・才覚などからその家の養子となる者や金銭をためて、それにより株を買う者 幕臣が家臣に持参金養子の世話などをし、御家人株を買い与える 武士の次男以下の男子が御家人株を買って、その家の跡目となる手段や身分を失った元・武士が再び武士層に戻る手段 旗本・御家人が株を売り、金銭を得た後、町人や職人などになる 遊女などの相手と結婚するために、旗本・御家人株を売り、町人になる など、様々な形で行われ、利用された。 ただし、こうした旗本・御家人株の売買による身分違いの養子縁組・持参金養子は、寛文3年(1663年)江戸幕府が公布した「御旗本御法度」や安永3年(1774年)、天保7年(1836年)、嘉永6年(1853年)に出された持参金養子の禁令などにより、幕府により禁止され、処罰の対象とされていた。そのため、旗本・御家人株などの売買により、武士身分となった者がトラブルなどにより訴訟される事態になった場合には、御家人株を買い、武士身分となった家であることが露見するのを避けるために内済金などを払い、和解するという事例もあった。 また、売買された御家人株の相場については、幕末の嘉永6年(1853年)6月頃には、高百石に付き50両、急養子は78両から100両までであったとされる。そして、与力が1000両、同心が200両、御徒が500両という相場が形成されていた。
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