江戸時代の武家官位
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徳川家康が江戸幕府を開くと、官位を武士の統制の手段として利用しつつもその制度改革に乗り出した。まず、慶長11年(1606年)に武家官位は江戸幕府の推挙によるものとした。慶長16年(1611年)には武家官位を員外官(いんがいのかん)として公家官位と切り離す方針が打ち出され、禁中並公家諸法度(第7条)により制度化された。これは将軍であっても例外ではなかった。ただし、武家官位の太政大臣(徳川家康・秀忠・家斉が任官)と公家官位の太政大臣の重複は発生しなかった。これについて、朝廷側では徳川将軍家の太政大臣は実質を伴う公家官位である(禁中並公家諸法度が規定した武家官位にはあたらない)という考え方があったらしく、江戸時代の公家で最初の太政大臣になった近衛基熙(徳川家宣の義父でもある)も「太政大臣は東武(徳川将軍)の官になっていて摂関家や清華家は任じられない官」になっていたと記している(『基熙公記』宝永6年9月8日条)。 これによって武士の官位保有が公家の昇進の妨げになる事態を防止した。また、武家の官位の任命者は事実上将軍とし、大名家や旗本が朝廷から直接昇進推挙を受けた場合でも、将軍の許可を受けねばならなかった。ただし、形式的手続であるとは言え、将軍が任じた官位を幕府から朝廷に申請を行って天皇の勅許を得る必要があり、勅許を得ることで正式にその官位が認められた。将軍に任命された時点では単に「諸大夫」「四品」などに任じられて「○○守」などの名乗りを許されたという仰書・申付書が下されるだけに過ぎないが、勅許を得ることで「従五位下」「従四位下」といった正式な位階と名乗りがそのまま官途名として認められた位記・口宣案が発給された。 なお、位記・口宣案の発給には従五位下諸大夫で金十両、大納言で銀100枚と言った具合に天皇に対して金子を進上することになっており、それが上皇や皇太子、女院、中宮や武家伝奏、上卿や実務にかかわる地下官人などにも配分された。武家官位の授与数は年間で3桁以上に上るため、武家官位の授与は江戸時代の天皇・皇族・公家にとっては大きな収入源になっていた。 但し、全ての大名が武家官位を持つようになるのは、18世紀に入ってからである。江戸時代の初期には小大名の中には武家官位を授からないままの者も少なくなかった。寛文印知によって大名の格式が整備された頃から、ほとんどの大名に官位が与えられるようになり、宝永6年3月7日(1709年4月16日)に将軍徳川家宣は「今より万石以下の人々、みな叙爵あるべし」と宣言(『徳川実紀』(『文昭院殿御実紀』巻1))して官位のなかった27名の大名が一斉に叙爵されて以後、全ての大名が家督継承時(家格によってはそれ以前の段階)に武家官位が授けられることになったのである。これにより名目上となった武家の家格は余り重要視されなくなる。 大名に与える位階は、宮中の武官の家柄であった羽林家に倣い、 従五位下(諸大夫・五位) - 一般大名 従四位下(四品・しほん) 官職は 侍従国持大名(小笠原、鍋島など)は従四位下侍従 南部・柳沢と準国主(丹羽、立花など)は初め従四位下または従五位下のち従四位下侍従に昇進 織田も江戸初期は準国主に次ぐ格式(「明和事件」「宇陀崩れ」で家格降下) 譜代の一部(榊原など)は従五位下のち侍従に昇進 譜代並・願い譜代の一部(真田など)は従五位下のち従四位下に昇進 左近衛権少将 - 国持大名の一部(黒田、岡山池田、細川など)、親藩、親藩並(鳥取池田など)、連枝(高須、西条など) 左近衛権中将 - 松平(将軍家の兄の家。越前松平福井藩)、保科(将軍家の弟の家。会津松平)、島津、伊達、井伊 参議(宰相) - 前田、家門(館林、甲府) 権中納言(黄門) - 水戸徳川家 権大納言(亜相) - 尾張徳川家、紀州徳川家 とした。 これらの武家官位について、伺候席席次を官位の先任順としたり、一部の伺候席を四品以上の席としたりするなどして、格差をつける。その上で、大名家により初官や昇進の早さを微妙に変えるなどして家格の差を生ぜしめた。 なお、旗本が武家官位を授けられる場合には、正六位相当の布衣に任ぜられる場合があった。江戸幕府による武家官位では、布衣がもっとも下位にあたった。また、御三家及び加賀藩の家老のうち数名が幕府の推挙という形式で叙爵を受けることができた(附家老)。 ただし、以上の規定にも関わらず、喜連川藩の藩主である喜連川氏のみは、歴代当主は幕府からの武家官位を受けずに公式には無位無官でありながら、「左兵衛督」「左馬頭」を自称し、幕府や朝廷も許容していた。これは、同氏は足利将軍家の血を引く生き残り(古河公方の末裔。「左兵衛督」「左馬頭」は歴代の鎌倉公方・古河公方の官職)であり、幕藩体制の統制下の枠組みには完全には含まれていなかった影響があるとみられている。 参考までに1712年(正徳2年)刊行の「和漢三才図会」記載の官位昇進の順序を以下に示す(ただし、左の番号は、便宜的につけたものである)。 1侍→2諸大夫→3侍従(相当従五位下)→4少将(相当正五位下)→5中将(相当従四位上)→6参議(相当正四位下または従三位)→7中納言(相当従三位)→8大納言(相当正三位・従三位)→9内大臣(相当正二位・従二位)→10右大臣(相当従二位)→11左大臣(相当正二位)→12太政大臣(相当正一位・従一位)
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