江戸時代の武家官位とは? わかりやすく解説

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江戸時代の武家官位

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:54 UTC 版)

武家官位」の記事における「江戸時代の武家官位」の解説

徳川家康江戸幕府を開くと、官位武士の統制の手段として利用しつつもその制度改革乗り出した。まず、慶長11年1606年)に武家官位江戸幕府推挙よるものとした。慶長16年1611年)には武家官位員外官いんがいのかん)として公家官位切り離す方針打ち出され禁中並公家諸法度(第7条)により制度化された。これは将軍であっても例外ではなかった。ただし、武家官位太政大臣徳川家康秀忠家斉任官)と公家官位太政大臣重複発生しなかった。これについて、朝廷側では徳川将軍家太政大臣実質を伴う公家官位である(禁中並公家諸法度規定した武家官位にはあたらない)という考え方あったらしく、江戸時代公家最初太政大臣になった近衛基熙徳川家宣義父でもある)も「太政大臣東武徳川将軍)の官になっていて摂関家清華家任じられない官」になっていたと記している(『基熙公記宝永6年9月8日条)。 これによって武士の官位保有公家昇進妨げになる事態防止したまた、武家の官位任命者は事実上将軍とし、大名家旗本朝廷から直接昇進推挙受けた場合でも、将軍許可を受けねばならなかった。ただし、形式的手続であるとは言え将軍任じた官位幕府から朝廷申請行って天皇勅許を得る必要があり、勅許を得ることで正式にその官位認められた。将軍任命され時点では単に「諸大夫」「四品」などに任じられて「○○守」などの名乗り許されたという仰書・申付書が下されるだけに過ぎないが、勅許を得ることで「従五位下」「従四位下」といった正式な位階名乗りそのまま官途名として認められ位記口宣案発給された。 なお、位記口宣案発給には従五位下諸大夫金十両、大納言で銀100枚と言った具合天皇に対して金子進上することになっており、それが上皇皇太子女院中宮武家伝奏上卿実務にかかわる地下官人などにも配分された。武家官位授与数は年間で3以上に上るため、武家官位授与江戸時代天皇皇族・公家にとっては大きな収入源になっていた。 但し、全ての大名武家官位を持つようになるのは、18世紀入ってからである。江戸時代初期には小大名中には武家官位授からないままの者も少なくなかった寛文印知によって大名格式整備された頃から、ほとんどの大名官位与えられるようになり、宝永6年3月7日1709年4月16日)に将軍徳川家宣は「今より万石下の人々、みな叙爵あるべし」と宣言(『徳川実紀』(『文昭院殿御実紀巻1))して官位のなかった27名の大名一斉に叙爵されて以後全ての大名家督継承時(家格によってはそれ以前段階)に武家官位授けられることになったのである。これにより名目上となった武家の家格余り重要視されなくなる。 大名与え位階は、宮中武官家柄であった羽林家倣い従五位下諸大夫五位) - 一般大名 従四位下(四品・しほん) 官職侍従国持大名小笠原鍋島など)は従四位下侍南部柳沢と準国主丹羽立花など)は初め従四位下または従五位下のち従四位下侍従に昇進 織田江戸初期は準国主に次ぐ格式(「明和事件」「宇陀崩れ」で家格降下譜代一部榊原など)は従五位下のち侍従昇進 譜代並・願い譜代一部真田など)は従五位下のち従四位下に昇進 左近衛権少将 - 国持大名一部黒田岡山池田細川など)、親藩親藩並(鳥取池田など)、連枝高須西条など) 左近衛権中将 - 松平将軍家の兄の家。越前松平福井藩)、保科将軍家の弟の家。会津松平)、島津伊達井伊 参議宰相) - 前田家門館林甲府権中納言黄門) - 水戸徳川家 権大納言亜相) - 尾張徳川家紀州徳川家 とした。 これらの武家官位について、伺候席席次官位先任順としたり、一部伺候席四品上の席としたりするなどして、格差をつける。その上で大名家により初官や昇進早さ微妙に変えるなどして家格の差を生ぜしめた。 なお、旗本武家官位授けられる場合には、正六位当の布衣に任ぜられる場合があった。江戸幕府による武家官位では、布衣がもっと下位あたったまた、御三家及び加賀藩家老のうち数名幕府推挙という形式叙爵を受けることができた(附家老)。 ただし、以上の規定にも関わらず喜連川藩藩主である喜連川氏のみは、歴代当主幕府からの武家官位受けずに公式には無位無官ありながら、「左兵衛督」「左馬頭」を自称し幕府朝廷許容していた。これは、同氏足利将軍家血を引く生き残り古河公方末裔。「左兵衛督」「左馬頭」は歴代鎌倉公方古河公方官職)であり、幕藩体制統制下の枠組みには完全には含まれていなかった影響があるとみられている。 参考までに1712年正徳2年刊行の「和漢三才図会記載官位昇進順序を以下に示す(ただし、左の番号は、便宜的にけたものである)。 1侍→2諸大夫→3侍従(相当従五位下)→4少将(相当正五位下)→5中将(相当従四位上)→6参議(相当正四位下または従三位)→7中納言(相当従三位)→8大納言(相当正三位従三位)→9内大臣(相当正二位従二位)→10右大臣(相当従二位)→11左大臣(相当正二位)→12太政大臣(相当正一位従一位

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