江戸時代の武田氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 08:33 UTC 版)
天目山の戦いの後、信玄の次男・竜芳(海野信親)の子の信道は織田氏による残党狩りから逃れた。その後、信道は大久保長安事件に巻き込まれて伊豆大島へ流されたが、その子・信正の代で許されて1700年(元禄13年)に幕臣となり高家として仕えた(ただし、この家系は、江戸時代や明治時代に同根の柳澤氏とはいえ、他家から養子を迎えて家督を継承しているので、信玄の血を保っているわけではない)。幕末時の高家武田家の家禄は500石だった。幕末維新時の当主武田崇信は安政4年(1857年)から奥高家に列していたが、他の高家と同様に早々に朝廷に帰順して領地を安堵され、幕臣から朝臣に転じて中大夫席を与えられた。 この高家の武田家以外にも系譜があり、信玄五男・仁科盛信の長男・信基と次男・信貞が徳川旗本として仕え、2系とも現在まで系譜が残っている(信貞は武田に復姓している)。信玄七男の安田信清は姉婿である上杉景勝のもとへ逃れ、のちに武田姓に復して代々同家に仕えた。信玄の弟・河窪信実の子信俊は家康に旗本として仕え、これものちに武田姓に復している。
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