江戸時代の椙杜氏と家名断絶
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「椙杜氏」の記事における「江戸時代の椙杜氏と家名断絶」の解説
椙杜元縁の死後、杉杜元周、杉杜広中、杉杜広品、椙杜元世と続き、長府藩家老として権力の中枢にあったが、1710年(宝永7年)の浮石義民事件によって処罰され、減封された。1713年(正徳3年)には、筆頭家老の座を細川宮内に譲った。 1718年(享保3年)に長府藩5代藩主・毛利元矩が死去。15歳での夭折だったため、長府藩は家名断絶、領地は萩藩に還付することが検討される一大事となった。 毛利本家は清末藩主・毛利元平に家督を継がせ、長府藩の存続を幕府に願い出て、許された。元平は毛利匡広と名乗り、長府藩の6代藩主となった。 そのため清末藩出身者が長府藩でも幅をきかせるようになり、藩内では対立が激化した。1720年(享保5年)春、ついに椙杜元岑(元世より改名)と、同じく家老の時田元遠は、藩主・毛利匡広に願い出て、家禄を返上して長府を去った。 椙杜元岑は妻の実家、豊前国宇佐郡に移り住み、その後分家のある長門国深川に住んだ。ここに嫡男の椙杜元位を置いて、備後国三原に移り住んで、名を三原正白と変えた。 1722年(享保7年)備中国笠岡の智光寺に身を寄せ、1727年(享保12年)に死去。嫡子の椙杜元位も1730年(享保15年)に死去し、椙杜氏の本流は断絶した。
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