天目山の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:08 UTC 版)
3月7日に織田信忠は甲府に入り、一条蔵人の私宅に陣を構えて勝頼の一門・親類や重臣を探し出し、これを全て処刑した。この時に処刑されたのは武田信友・諏訪頼豊・武田信廉らである。『信長公記』では親族衆の一条信龍の名も記されているが、『家忠日記』によれば、信龍は3月10日に徳川家康を先導した穴山信君に対応するため市川(市川三郷町)へ着陣しており、同日に本拠の上野城(市川三郷町上野)が降伏し、子息の信就とともに処刑されたとされる。 新府城を放棄した勝頼とその嫡男の信勝一行は郡内を目指すが、その途上で小山田信茂の離反に遭う。『甲陽軍鑑』では勝頼一行は鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待ったが、3月9日夜に信茂は郡内への入り口を封鎖し、勝頼一行を木戸から招き入れると見せかけて鉄砲を打ちかけたという。『理慶尼記』では信茂の離反を3月7日とし、郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市)としている。一方、『甲乱記』では信茂が離反した日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)から駒飼(甲州市大和町)へ移動する途中で離反を知ったとしている。 いずれにせよ、勝頼一行は岩殿行きを断念し、天目山(甲州市大和町)を目指して逃亡した。なお、天目山は室町時代の応永24年(1417年)に武田家の当主・信満が上杉禅秀の乱に加担して敗走し、自害した地でもある。 3月11日、徳川軍も甲府に入った。家康と穴山梅雪は信忠に面会し、今後についての相談を行った。同日、勝頼一行は天目山の目前にある田野(甲州市大和町)の地で滝川一益隊に対峙する。勝頼の家臣土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。また、阿部勝宝も敵陣に切り込み戦死した。勝頼最後の戦となった田野の四郎作・鳥居畑では、信長の大軍を僅かな手勢で奮闘撃退した。 しかし衆寡敵せず、3月11日巳の刻(午前11時頃)、勝頼・信勝父子、桂林院殿は自害した。武田信廉の子息とされ勝頼の従兄弟にあたる甲府・大竜寺の住職・大竜寺麟岳もともに死去しており、『甲陽軍鑑』『甲乱記』によれば、麟岳は勝頼から自らの死を見届け、脱出して菩提を弔うことを依頼されるがこれを断り、信勝と刺し違えて死去したという。勝頼に随行した家臣では長坂光堅、土屋昌恒・秋山源三郎兄弟(土屋昌恒・秋山源三郎はともに金丸筑前守(虎義)の子で、それぞれ土屋氏・秋山氏を継承した)、秋山紀伊守、小宮山友晴、小原下野守・継忠兄弟、木部範虎、大熊朝秀らも戦死した(跡部勝資も殉死したとする説もあるが、諏訪防衛戦で戦死したとも。いずれにしても『甲陽軍鑑』記載の長坂・跡部逃亡説は史実に反する)。 これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡した。勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった『楯無』(武田家代々の家督の証として大切に保管され、現在は甲州市恵山上於曽の菅田天神社に伝来する国宝「小桜韋威鎧」に比定される)を着せて元服式を執り行い、その後父子とも自刃したという悲話が残る。その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。勝頼父子の首級は京都に送られ長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首された。
※この「天目山の戦い」の解説は、「甲州征伐」の解説の一部です。
「天目山の戦い」を含む「甲州征伐」の記事については、「甲州征伐」の概要を参照ください。
- 天目山の戦いのページへのリンク