天真一刀流の道統
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文化8年(1811年)、武者修行に出ていた白井亨が江戸に戻り、宗有と木刀を取って立ち合った。しかし、63歳の宗有に28歳の白井がどうしても勝機を見いだせなかった。「どうしてでしょう」と尋ねた白井に、宗有は「見性悟道のほかはない」、「君は20年もの間、邪道に凝り固まって眼が開かないでいるのだ。一歩からやり直せ」と答えた。白井は宗有に入門した。5年後、宗有は白井に天真一刀流の印可を授けた。 宗有には子の寺田喜三太があり、剣技に優れていたが、宗有の死の翌年に夭折したため、白井亨が道統を継ぎ、天真一刀流は白井から津田明馨に伝えられた。白井はのちに自身の研究に基づき独自の「天真伝兵法」(天真白井流)を創始する。 宗有の死後、高崎藩では剣術が沈滞したため、これを再興する目的で弘化3年(1846年)より藩祖の忌日に演武会を催すこととなり、この機会に津田が登用された。明馨からはその養子・津田明常に道統が伝えられた。しかし、元治元年(1864年)12月、明常の死によって高崎での宗有の武術は絶えた。 近代では、福島小一が天真一刀流を学び、大正4年(1915年)8月に免許を授かっている。福島はその後、神道無念流の中山博道に入門し、後に剣道・居合道・杖道の三道で範士となった。
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