家系の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/02 03:53 UTC 版)
1,秀盛は織田家に仕えて豊臣家が滅んだ際、蜂須賀家から300石(領地は那珂郡坂野、名西群下浦)を与えられ、子孫は徳島藩士として生き延びた。 2.秀基の活躍としては、天正10年(1582年)3月、織田家の滝川一益が甲斐国に軍事侵略した際、武田勝頼との戦いである天目山の戦い(田野合戦)で、一益幕下の秀基が武田氏の武将の首を二つ討ち、功名を挙げている。功名の恩賞としては、甲斐国佐久郡の会田郷に200貫(当時価値では2000石位)の知行を宛がわれ、宛行書状も東京大学史料編纂所に中野文庫として残されている。 3,『蜂須賀公のお供にて大坂の陣でも活躍』の古文書の記述がある。 4,晩年は剃髪後に高野山光明院に移り住み、元和年間に死没した。法名は「即空覚心大居士」である。 5,妻は森甚五兵衛(家老、元阿波海軍長)の養女にて、子供は中野三郎兵衛秀則、中野(赤堀)新左衛門秀重らである。 6,秀則死後、秀重が中野本家を受け継ぐ。 7,秀重は室町時代末期に改名した中野を蜂須賀公の許しを頂き、本来の赤堀と改名して現在に至る。藤原氏→足利氏→赤堀家→中野家→赤堀家の変遷がある。
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