家系と親族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 06:08 UTC 版)
「アレクシオス・ストラテゴポウロス」の記事における「家系と親族」の解説
アレクシオス・ストラテゴポウロスの前半生については一切記録が残っていない。彼につながる正確な系譜も不明で、ただストラテゴポウロス家が貴族であることしかわかっていない。他のストラテゴポウロス家の人物としては、11世紀から12世紀にかけて生きて1216年ごろにニカイア帝国のメガス・ロゴセテスを務めたヨハネス・ストラテゴポウロスという人物が知られているが、彼とアレクシオスとの血縁関係も不明である。ただ、1255年頃に用いられたと考えられている印章に「アレクシオス・ストラテゴポウロス コムネノス家」という刻印がみられることから、ストラテゴポウロス家はコムネノス家の流れをくんでいたと考えられる。 15世紀のコンスタンディヌーポリ総主教ゲンナディオス2世や16世紀の学者Pseudo-Sphrantzesによれば、アレクシオス・ストラテゴポウロスはカエサルのニケフォロス・メリッセノスと皇帝アレクシオス1世コムネノス (在位: 1081年–1118年),の娘エウドキア・コムネナの間に生まれたヨハネス・コムネノスの子孫であるという。Pseudo-Sphrantzesは、アレクシオスはヨハネス・コムネノスの曽孫で、「ストラテゴポウロス」という家名は祖父すなわちヨハネス・コムネノスの息子アレクシオスの妻から受け継がれたものであるとしている。一方ゲンナディオス2世は、アレクシオス・ストラテゴポウロスはヨハネス・コムネノスの玄孫であり、「ストラテゴポウロス」とはアレクシオス・ストラテゴポウロスの父テオドシウスがニカイア皇帝ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスからその将軍としての明敏さを褒められ、「小さな元帥」という意味の通称を与えられたことに由来する、としている。 アレクシオス・ストラテゴポウロスの生年も分かっていないが、1258年の記録ですでに「老人」と呼ばれていることから、12世紀から13世紀の変わり目付近で生まれたのではないかと推測されている。アレクシオス・ストラテゴポウロスにはコンスタンティノスという息子がいた。ゲオルギオス・パキメレスによれば、彼はヨハネス3世の弟でセバストクラトルだったイサキオス・ドゥーカス・ヴァタツェスの娘と結婚した。
※この「家系と親族」の解説は、「アレクシオス・ストラテゴポウロス」の解説の一部です。
「家系と親族」を含む「アレクシオス・ストラテゴポウロス」の記事については、「アレクシオス・ストラテゴポウロス」の概要を参照ください。
- 家系と親族のページへのリンク