江戸時代の澱橋とは? わかりやすく解説

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江戸時代の澱橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/14 01:52 UTC 版)

澱橋」の記事における「江戸時代の澱橋」の解説

仙台城下町開府期に澱橋位置はなかった。ただし、やや下流支倉けられており、左岸仙台中町段丘Ⅰにある支倉町に北詰(位置)があり、右岸仙台下町段丘にある川内明神横丁に南詰(位置)があって、両者の間を繋いでいた。しかし、元禄7年1694年8月3日大水流されてしまった。 すると、場所を上流側移して澱橋けられることになった江戸時代地誌には元禄8年1695年8月半ば頃に工事始め9月半ば竣工したとあるが、『伊達治家記録』には元禄7年1694年10月3日澱橋命名記事があり、この年建造とする説もある。北岸では橋の建設ともなって中町段丘Ⅰと下町段丘Ⅰのへくり沢(子沢)左岸東岸)との間に坂道建設され新坂命名された。新坂接続する中町段丘南北道は新坂通と命名され他方新坂接続する下町段丘広瀬川左岸沿いの東西道はへくり沢右岸から澱橋北詰まで澱町と称した以降江戸時代通じて川内から広瀬川を渡る大橋仲の瀬橋とこの澱橋3つしかなかった。 藩当局が持つ御修覆によれば長さ46間(約95m)、幅2間半(約6.3m)あった。安永7年1778年)頃に書かれた『残月台本』という地誌によれば63間、幅3間半あった。天保4年1833年)の『御城下町割絵図』には「淀橋」の名称で、右岸南岸)の川内から中州までのとして描かれており、中州左岸北岸)との間には描かれていない

※この「江戸時代の澱橋」の解説は、「澱橋」の解説の一部です。
「江戸時代の澱橋」を含む「澱橋」の記事については、「澱橋」の概要を参照ください。

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