江戸時代の矢倉
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現存の棋譜では1618年(元和4年)8月11日 (旧暦)の本因坊算砂と大橋宗桂の対局が初出である。算砂が矢倉囲いを用いた。 △ 宗桂 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 桂 金 桂 香 一 王 銀 飛 二 歩 金 銀 角 歩 三 歩 歩 歩 歩 歩 歩 歩 四 歩 五 歩 歩 歩 歩 歩 歩 歩 六 歩 銀 金 銀 七 角 玉 飛 八 香 桂 金 桂 香 九 ▲ 算砂 持駒 なし図は▲7七銀まで図1-1 矢倉第一号局・算砂対宗桂 △ 算砂 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 桂 金 王 桂 香 一 飛 金 二 歩 銀 歩 角 歩 三 歩 歩 銀 歩 歩 四 歩 歩 歩 五 歩 歩 歩 歩 六 歩 歩 銀 金 歩 銀 歩 七 金 角 飛 八 香 桂 玉 桂 香 九 ▲ 宗古 持駒 なし図は▲7七銀まで図1-2 矢倉右香落戦・宗古対算砂 △ 宗古 持駒 歩 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 桂 桂 香 一 飛 金 王 銀 二 金 歩 歩 歩 三 歩 歩 歩 銀 歩 四 歩 飛 五 歩 歩 歩 歩 歩 六 歩 歩 銀 金 銀 桂 歩 七 玉 八 香 桂 角 金 香 九 ▲ 宗安 持駒 歩図は▲3七桂まで図1-3 矢倉角落戦・宗安対宗古 当時は振飛車全盛期であり、雁木 (二枚銀) が最有力戦法として流行した。草創期は、図1-1から片矢倉にしている。これを見る限り、形のうえでは現代と変わってはいないが、将棋の考え方という点では大きな開きがある。ただし振飛車の早囲い (6二銀) も居飛車側の舟囲いも、すでにこのときに考案されていることが知れる。ともあれ矢倉将棋はこの宗桂・算砂戦に端を発し、さまざまな創造と修正の努力を繰り返しつつ、大きな発展をとげて、現代に生きつづけるのである。 ところで、後に駒落戦でも矢倉を採用されている。図1-2は右香車落(元和七年)で、先手引き角は旧型の雁木である。他、図1-3はの角落戦(対局年は不許であるが、角落矢倉の第一号局、1600年代前半とされる)が知られる。 △ 宗看 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 桂 金 桂 一 王 金 飛 二 歩 歩 歩 銀 銀 角 歩 三 歩 歩 歩 歩 歩 四 歩 五 歩 歩 歩 歩 歩 六 歩 銀 歩 歩 七 玉 金 銀 飛 八 香 桂 角 金 香 九 ▲ 是安 持駒 なし図は▲7九角まで図1-4 矢倉左香落ち戦・是安対宗看 △ 宗銀 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 桂 金 王 桂 香 一 飛 金 二 歩 歩 歩 銀 銀 角 歩 歩 三 歩 歩 歩 四 歩 歩 五 歩 歩 歩 六 歩 歩 銀 金 銀 歩 歩 歩 七 角 玉 飛 八 香 桂 金 香 九 ▲ 印達 持駒 なし図は▲7八玉まで図1-5 矢倉対二枚銀戦・印達対宗銀 △ 宗桂 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 桂 王 桂 香 一 飛 銀 金 金 二 歩 歩 銀 角 歩 歩 三 歩 歩 歩 歩 四 歩 歩 五 歩 歩 歩 歩 六 歩 歩 銀 歩 歩 七 金 角 金 銀 飛 八 香 桂 玉 桂 香 九 ▲ 看寿 持駒 なし図は▲6六歩まで図1-6 矢倉対二枚銀戦・看寿対宗桂 図1-4は、左香車落 (対局年は不詳、1600年代前半とされる) で、それぞれに矢倉の形が微妙な違いを見せている。 江戸期に死闘を演じた若き英才、大橋宗銀と伊藤印達は57番勝負を繰り広げるが、1709年(宝永6年)の57番勝負の第6局が図1-5で(前後逆)ある。10代同士の一戦。当時は雁木と矢倉の対決が最大のテーマであった。先手は7八銀から7七銀としている。矢倉への第一歩で、当時では珍しい着想であった。後手は3二金と立ち、6二銀から5三銀のコースで雁木を目指す。当時に会っては新の矢倉と旧の雁木の対決で、雁木から矢倉の優秀性が認識された注目すべき対戦であったといえる。 次の代は7世名人・伊藤宗看が出現し、さらに新しい実験を試みた。矢倉は形が重く守勢という風潮の中で矢倉を指す将棋師への再評価があったとみられる。宗看時代は5七銀型が常識になっていたが、実戦を重ねて4八銀型に修正されていったのもこの時代である。さらに当時は厚みを重視し、飛車先を切らせる指し方をしていたが、この観念に果敢に挑んでいたのが宗看であり、弟の贈名人である看寿であった。図1-6は1753年(宝暦3年)の御城将棋の対戦で、いつでも飛車先を切る権利をもつことで作戦勝ちになるとみられるが、当時飛車先を切って1歩を手にする利をさほど重視していないことがわかる。 △ 印寿 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 桂 桂 香 一 金 王 二 歩 飛 銀 金 銀 歩 歩 三 角 歩 歩 歩 歩 四 歩 歩 歩 歩 五 歩 歩 歩 角 六 歩 歩 銀 金 銀 桂 歩 七 玉 金 飛 八 香 桂 香 九 ▲ 宗順 持駒 歩図は▲4五歩まで図1-7 矢倉四手角戦・宗順対印寿 △ 宗看 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 桂 金 王 桂 香 一 飛 銀 二 歩 歩 歩 金 角 歩 歩 三 歩 銀 歩 歩 歩 四 歩 五 歩 歩 歩 歩 六 歩 歩 銀 歩 桂 歩 七 金 金 銀 飛 八 香 桂 角 玉 香 九 ▲ 宗桂 持駒 歩図は△5二飛まで図1-8 矢倉中飛車・宗桂対宗看 △ 孫兵衛 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 桂 銀 金 桂 香 一 飛 金 王 銀 二 歩 歩 歩 角 歩 歩 三 歩 歩 歩 歩 四 歩 五 歩 歩 歩 六 歩 歩 銀 歩 歩 歩 七 銀 飛 八 香 桂 角 金 玉 金 桂 香 九 ▲ 英節 持駒 なし図は▲2四歩まで図1-9 飛車先交換・栄節対孫兵衛 図1-7は1774年(宝永3年)の御城将棋、後手の印寿とはのちの八世名人・九代大橋宗桂で、図では6五歩の位取りが出現し、力強いさし方が見られるが、この将棋が四手角の原型とみられ、仕掛けたほうが不利になるとされた。現代の四手角も、千日手になる可能性が強くなって姿を消してゆく。ただし、この四手角が背負う千日手の宿命を克服しようとして、新しい現代流の矢倉戦法が開発されていくわけである。 図1-8は、1811年(文化八年)の御城将棋で、後手は江戸時代で最後の将棋所を勤めた十世名人・六代伊藤宗看である。当時、先代の九世名人・大橋宗英が新しい相掛り戦の研究に取り組み、いっぺんに振飛車がすたれるとともに、矢倉将棋も勝率という点で芳しからず、次代の大橋柳雪と天野宗歩の新研究を待つ情勢であった。矢倉の欠陥は、銀が左右に分かれて中央が手薄になるという認識であった。その矢倉の欠点を衝いたのが、図1-8で見る宗看の5二飛の手であった。「矢倉に中飛車」が、矢倉の隆盛をはばむ決め手となったのである。 その後、大橋柳雪が宗英の新感覚を承け継ぎ、それを天野宗歩に伝えていった。 図1-9は、1817年(文化14年)8月、英節時代の柳雪が深野孫兵衛と戦った矢倉戦で、2四歩と大胆に飛車先を切って出たとこである。いまでは当然の手でもあるが、当時は飛車先を切る利を重視しなかった。柳雪は早くもそこに着目して、2四歩と切って出たものである。 将棋の戦いで一歩得の「実利」を作戦としてはっきり認識したのは柳雪であった。 それでもこの時期柳雪以外は顧みず、これを有利と決定づけるのは、次代の棋士、天野宗歩の出現からであった。7八から7七銀及び7九角の着想が新しく、それによって2四歩が可能となった。柳雪が矢倉近代将棋の先駆である。 近代将棋の父と仰がれる宗歩は、傑出した新感覚の持ち主で、著書『精選定跡』は、特に宗歩の将棋理論の集大成といえるが、その先駆として宗英と柳雪があり、二人に先達に学んだことは実戦譜に如実に示されている。 △ 宇兵衛 持駒 角 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 桂 金 桂 香 一 飛 銀 王 二 歩 歩 銀 金 歩 歩 三 歩 歩 歩 歩 四 歩 五 歩 歩 歩 銀 六 歩 歩 銀 金 歩 歩 七 玉 金 飛 八 香 桂 桂 香 九 ▲ 留次郎 持駒 角歩二図は▲6八金まで図1-10 天野矢倉の出現・宗歩対宇兵衛 △ 富次郎 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 桂 桂 香 一 飛 銀 角 金 王 二 歩 歩 金 銀 歩 歩 三 歩 歩 歩 歩 四 歩 歩 五 歩 歩 歩 歩 六 歩 歩 銀 金 歩 歩 七 玉 金 角 銀 飛 八 香 桂 桂 香 九 ▲ 蘭雪 持駒 なし図は△7四歩まで図1-11 同型矢倉の出現・蘭雪対宗歩 △ 木村 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 桂 桂 香 一 飛 金 王 二 歩 銀 金 銀 歩 三 歩 歩 歩 歩 歩 歩 四 歩 歩 歩 五 歩 歩 歩 歩 歩 六 歩 銀 金 銀 桂 歩 七 玉 金 飛 八 香 桂 香 九 ▲ 土居 持駒 なし図は▲4五歩まで図1-12 土居矢倉の出現・土居対木村 当時、草創期から棋界の主流をなした振り飛車が廃れ、居飛車将棋が主潮をなす土壌のなかで、主役を演じたのは宗歩であり、前代の7八から7七銀を修正し、7八銀-7七角-6八角の手法を用いて飛車先を切って出る。他の将棋師が飛車先を切らずに戦う中で宗歩のみが飛車先を切ったのは、既成概念を取り払って1歩得の利を有利とする大局観からである。 さらに宗歩の名前を不朽にさせるのは、天野矢倉の創造である。図1-10は1837年(天保4年)正月28日、深野宇兵衛との一番。6八に金を構えて矢倉を完成させ、ここから2筋と4筋の歩を切って2歩を持ち、実利とともに序盤の一手の大事さを示す。こうした序盤感覚の鋭さも、近代将棋を開拓した宗歩の功績である。著書『精選定跡』は実戦がそのまま定跡となり、さらに実戦の実験によって修正を加えてより完璧なものとしていった。 角交換の矢倉も宗歩が初めて試みた手で、ほかに、四手角にも新機軸を出した。 図1-11は、1845年(弘化二年)10月20日、市川蘭雪との対戦。相矢倉となり、当然ながら同型をたどってゆく。いまもそうであるが、同型のばあい、どこで後手が手を変えるかが興味の焦点になっている。図1-11から先手は、1六歩と突き、後手の宗歩は同型を避けて、7三銀と変化した。先手の1六歩の手を緩手にしようという着想で、これで一挙に攻めの主導権をにぎろうとした。序盤作戦の鋭さと からさがみうけられる。
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