江戸時代の矢倉とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 江戸時代の矢倉の意味・解説 

江戸時代の矢倉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:37 UTC 版)

矢倉囲い」の記事における「江戸時代の矢倉」の解説

現存棋譜では1618年元和4年8月11日 (旧暦)本因坊算砂大橋宗桂対局初出である。算砂が矢倉囲い用いた。 △ 宗桂 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 一 王 銀 飛 二 歩 金 銀 角 歩 三 歩 歩 歩 歩 歩 歩 歩 四 歩 五 歩 歩 歩 歩 歩 歩 歩 六 歩 銀 金 銀 七 角 玉 飛 八 香 香 九 ▲ 算砂 持駒 なし図は▲7七銀まで図1-1 矢倉第一号局・算砂対宗桂 △ 算砂 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 金 王 香 一 飛 金 二 歩 銀 歩 角 歩 三 歩 歩 銀 歩 歩歩 歩 歩 五 歩 歩 歩 歩歩 歩 銀 金 歩 銀 歩 七 金 角 飛 八 香 玉 桂 香 九 ▲ 宗古 持駒 なし図は▲7七銀まで図1-2 矢倉右香落戦・宗古対算砂 △ 宗古 持駒9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 一 飛 金 王 銀 二 金 歩 歩 歩 三 歩 歩 歩 銀 歩 四 歩 飛 五 歩 歩 歩 歩 歩 六 歩 歩金 銀 歩 七 玉 八 香 角 金 香 九 ▲ 宗安 持駒 歩図は▲3七まで図1-3 矢倉角落戦・宗安対宗古 当時振飛車全盛期であり、雁木 (二枚銀) が最有力戦法として流行した草創期は、図1-1から片矢倉にしている。これを見る限り、形のうえでは現代変わってはいないが、将棋考え方という点では大きな開きがある。ただし振飛車早囲い (6二銀) も居飛車側の舟囲いも、すでにこのときに考案されていることが知れるともあれ矢倉将棋はこの宗桂・算砂戦に端を発しさまざまな創造修正努力繰り返しつつ、大きな発展をとげて、現代生きつづけるのである。 ところで、後に駒落戦でも矢倉採用されている。図1-2は右香車落(元和七年)で、先手引き角旧型の雁木である。他、図1-3はの角落戦(対局年は不許であるが、角落矢倉第一号局、1600年代前半とされる)が知られる。 △ 宗看 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 一 王 金 飛 二 歩 歩 歩 銀 銀 角 歩 三 歩 歩 歩 歩 歩 四 歩 五 歩 歩 歩 歩 歩 六 歩 銀 歩 歩玉 金 銀 飛 八 香 角 金 香 九 ▲ 是安 持駒 なし図は▲7九角まで図1-4 矢倉香落ち戦・是安対宗看 △ 宗銀 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 金 王 香 一 飛 金 二 歩 歩 歩 銀 銀歩 歩 三 歩 歩 歩歩 歩 五 歩 歩 歩歩 歩金 銀 歩 歩 歩 七 角 玉 飛 八 香 金 香 九 ▲ 印達 持駒 なし図は▲7八玉まで図1-5 矢倉二枚銀戦・印達対宗銀 △ 宗桂 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 一 飛 銀 金 金 二 歩銀 角 歩 歩 三 歩 歩 歩 歩歩 歩 五 歩 歩 歩 歩歩 歩歩 歩金 角 金 銀 飛 八 香 玉 桂 香 九 ▲ 看寿 持駒 なし図は▲6六歩まで図1-6 矢倉二枚銀戦・看寿対宗桂1-4は、左香車落 (対局年は不詳1600年代前半とされる) で、それぞれに矢倉の形が微妙な違い見せている。 江戸期死闘演じた若き英才大橋宗銀と伊藤印達57番勝負繰り広げるが、1709年宝永6年)の57番勝負第6局が図1-5で(前後逆)ある。10代同士一戦当時雁木矢倉対決最大テーマであった先手は7八銀から7七銀としている。矢倉への第一歩で、当時では珍しい着想であった後手は3二金と立ち、6二銀から5三銀コース雁木目指す当時会っては新の矢倉と旧の雁木対決で、雁木から矢倉の優秀性が認識され注目すべき対戦であったといえる次の代は7世名人伊藤宗看出現し、さらに新し実験試みた矢倉は形が重く守勢という風潮の中で矢倉指す将師への再評価があったとみられる。宗看時代は5七銀型が常識になっていたが、実戦重ねて4八銀型に修正されていったのもこの時代である。さらに当時は厚みを重視し飛車先切らせる指し方をしていたが、この観念果敢に挑んでいたのが宗看であり、弟の贈名人である看寿であった。図1-61753年宝暦3年)の御城将棋対戦で、いつでも飛車先を切る権利をもつことで作戦勝ちになるとみられるが、当時飛車先切って1歩を手にする利をさほど重視していないことがわかる。 △ 印寿 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 一 金 王 二 歩 飛 銀 金 銀 歩 歩 三 角 歩 歩 歩 歩 四 歩 歩 歩五 歩 歩 歩 角 六 歩 歩金 銀 歩 七 玉 金 飛 八 香 香 九 ▲ 宗順 持駒 歩図は▲4五歩まで図1-7 矢倉四手角戦・宗順対印寿 △ 宗看 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 金 王 香 一 飛 銀 二 歩 歩 歩 金 角 歩 歩 三 歩歩 歩 歩 四 歩 五 歩 歩 歩 歩歩 歩 銀 歩 歩 七 金 金 銀 飛 八 香 角 玉 香 九 ▲ 宗桂 持駒 歩図は△5二飛まで図1-8 矢倉中飛車宗桂対宗看 △ 孫兵衛 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 銀 金 香 一 飛 金 王 銀 二 歩 歩 歩歩 歩 三 歩 歩 歩 歩 四 歩 五 歩 歩 歩歩 歩歩 歩 歩 七 銀 飛 八 香 角 金 玉 金 香 九 ▲ 英節 持駒 なし図は▲2四歩まで図1-9 飛車先交換・栄節対孫兵衛1-71774年宝永3年)の御城将棋後手の印寿とはのちの八世名人九代大橋宗桂で、図では6五歩位取り出現し、力強いさし方が見られるが、この将棋四手角原型とみられ、仕掛けたほうが不利になるとされた。現代四手角も、千日手になる可能性強くなって姿を消してゆく。ただし、この四手角背負千日手宿命克服しようとして、新し現代流の矢倉戦法開発されていくわけである。 図1-8は、1811年文化八年)の御城将棋で、後手江戸時代最後将棋所勤めた十世名人六代伊藤宗看である。当時先代九世名人大橋宗英新しい相掛り戦の研究取り組みいっぺんに振飛車すたれるとともに矢倉将棋勝率という点で芳しからず次代大橋柳雪天野宗歩の新研究を待つ情勢であった矢倉欠陥は、銀が左右に分かれて中央手薄になるという認識であった。その矢倉欠点を衝いたのが、図1-8で見る宗看の5二飛の手であった。「矢倉中飛車」が、矢倉隆盛をはばむ決め手となったのであるその後大橋柳雪が宗英の新感覚承け継ぎ、それを天野宗歩伝えていった。 図1-9は、1817年文化14年)8月、英節時代深野孫兵衛戦った矢倉戦で、2四歩と大胆に飛車先切って出たとこである。いまでは当然の手でもあるが、当時飛車先を切る利を重視しなかった。早くもそこに着目して、2四歩と切って出たのである将棋戦いで一歩得の「実利」を作戦としてはっきり認識したのはであった。 それでもこの時期以外は顧みず、これを有利と決定づけるのは、次代棋士天野宗歩出現からであった。7八から7七銀及び7九角の着想新しく、それによって2四歩が可能となった矢倉近代将棋先駆である。 近代将棋の父と仰がれる宗歩は、傑出した新感覚持ち主で、著書精選定跡』は、特に宗歩の将棋理論集大成といえるが、その先駆として宗英とがあり、二人先達学んだことは実戦譜に如実に示されている。 △ 宇兵衛 持駒9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 一 飛 銀 王 二 歩 歩 銀 金 歩 歩 三 歩 歩 歩 歩 四 歩 五 歩 歩 歩 銀 六 歩 歩 銀 金 歩 歩玉 金 飛 八 香 香 九 ▲ 留次郎 持駒 角歩二図は▲6八金まで図1-10 天野矢倉出現・宗歩対宇兵衛富次持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 一 飛 銀 角 金 王 二 歩 歩 金歩 歩 三 歩 歩 歩 歩歩 歩 五 歩 歩 歩 歩歩 歩 銀 金 歩 歩玉 金 角 銀 飛 八 香 香 九 ▲ 雪 持駒 なし図は△7四歩まで図1-11 同型矢倉出現対宗歩 △ 木村 持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 一 飛 金 王 二 歩金 銀三 歩 歩 歩 歩 歩 歩歩 歩 歩 五 歩 歩 歩 歩 歩 六 歩 銀 金 銀 歩 七 玉 金 飛 八 香 香 九 ▲ 土居 持駒 なし図は▲4五歩まで図1-12 土居矢倉出現土居木村 当時草創期から棋界主流をなした振り飛車廃れ居飛車将棋主潮をなす土壌のなかで、主役演じたのは宗歩であり、前代の7八から7七銀を修正し、7八銀-7七角-6八角の手法を用いて飛車先切って出る。他の将棋師が飛車先切らずに戦う中で宗歩のみが飛車先切ったのは、既成概念取り払って1歩得の利を有利とする大局観からである。 さらに宗歩の名前を不朽にさせるのは、天野矢倉創造である。図1-10は1837年天保4年正月28日深野兵衛との一番。6八に金を構えて矢倉完成させ、ここから2筋と4筋の歩を切って2歩を持ち実利とともに序盤一手大事さを示す。こうした序盤感覚の鋭さも、近代将棋開拓した宗歩の功績である。著書精選定跡』は実戦そのまま定跡となり、さらに実戦実験によって修正加えてより完璧なものとしていった。 角交換矢倉も宗歩が初め試みた手で、ほかに、四手角にも新機軸出した。 図1-11は、1845年弘化二年)10月20日市川との対戦相矢倉となり、当然ながら同型たどってゆく。いまもそうであるが、同型のばあい、どこで後手が手を変えるかが興味焦点になっている。図1-11から先手は、1六歩と突き後手の宗歩は同型避けて、7三銀変化した先手の1六歩の手緩手にしようという着想で、これで一挙に攻め主導権をにぎろうとした。序盤作戦鋭さと からさがみうけられる

※この「江戸時代の矢倉」の解説は、「矢倉囲い」の解説の一部です。
「江戸時代の矢倉」を含む「矢倉囲い」の記事については、「矢倉囲い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「江戸時代の矢倉」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「江戸時代の矢倉」の関連用語

江戸時代の矢倉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



江戸時代の矢倉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの矢倉囲い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS