江戸時代の縁切寺以外の駆け込み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 09:18 UTC 版)
「縁切寺」の記事における「江戸時代の縁切寺以外の駆け込み」の解説
幕府公認の縁切寺が東慶寺と満徳寺に限定されたことは、離縁を望む妻側の救済手段がそれだけに限定されたことを意味しない。幕府権力を最終的なよりどころとしなくても、武家・神職・山伏などの社会的権威のある人々の屋敷への縁切り駆け込みが多数あり、ほとんどは速やかに離婚を成立させることができた。縁切り寺はあくまでも最終手段であった。 当時庶民とりわけ農民の家族においては、妻も労働力のゆえにその地位は低くなく、離婚も再婚も容易であり、また夫の恣意による不実の専断離婚は認められず、訴訟によって妻は復縁・離婚を請求することもできたのであり、「夫のみが一方的に三行半を突きつけて追い出し離婚を強制することができ、妻は縁切り寺に駆け込む以外の救済手段を持たなかった」というのは、後世の誤解であると論じられている。江戸期の離婚率の高さは、夫専権離婚ではなく、妻による「飛び出し離婚」が多かったためと考えられている(『群馬県史 通史編6 近世3 生活・文化』 p.194)。 例えば、上野国小幡藩では、妻と離婚したいが告げられず(いわゆる、かかあ天下のため)、藩の陣屋や町役人の所に縁切り駆け込みし、離婚を訴える事例が2例確認できる(『群馬県史 通史編6 近世3 生活・文化』 p.195)。また熊本藩にも夫の縁切り駆け込みをにおわす文書が確認されている(前同 p.195)。 また、同じく上野国(群馬県)の例だが、交代寄合の旗本で、新田氏の子孫である岩松氏の屋敷にも、駆け込みがあったことが確認されている。ただしあくまで非公式な手続きであり、正式に離婚斡旋を始めたのは、明治期に入った当主の新田俊純男爵からである。岩松家は歴史が古く格式が高いため権威があり、しかし120石と少禄であったので屋敷は当然それほど立派ではなく、つまり庶民が駆け込み易かったとも推測される。さらに岩松家は護符を売るなどの呪術的な商いでも知られていたため、信仰心的な権威もあった。さらに、屋敷はいわゆる縁切寺の満徳寺の近隣に存在していた。
※この「江戸時代の縁切寺以外の駆け込み」の解説は、「縁切寺」の解説の一部です。
「江戸時代の縁切寺以外の駆け込み」を含む「縁切寺」の記事については、「縁切寺」の概要を参照ください。
- 江戸時代の縁切寺以外の駆け込みのページへのリンク