縁切り駆け込み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 09:29 UTC 版)
拝領屋敷地の近くにある縁切寺として有名な満徳寺と同様、岩松家でも縁切りを願う女の駆け込みを(非公式にだが)受け付けていた。夫との離縁を願う女が屋敷に駆け込んだ時は、その女を留め置いて家来を女の国元へ派遣する。幕府交代寄合旗本である家柄の威光もあって、そうすることで夫との間に早期に内済で離縁を成立させることができた。離縁が成立すると女方の実家から「土産金」という謝礼金を受理していた。 岩松家当主の日記と、離縁の取り決めがなされた際に書かれた証文により、安政2年(1855年)より14件の縁切り駆け込みがあった事が確認される。この証文には、女を留置したのはやむを得ない仕儀であった事、離縁の成立は夫婦の間の取り決めであって岩松家には一切関わりがないという事等をしたためさせた。 縁切りを願う女の駆け込みは以前からあったが、その時は女の親類や村役人を屋敷に呼び出し連れ戻させるという処置を取っていた。縁切りの斡旋を行うようになったのは、残されている記録によれば俊純の代からである。
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