江戸時代の衆道、平和と女性増加による衰退
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「衆道」の記事における「江戸時代の衆道、平和と女性増加による衰退」の解説
戦国時代末期(安土桃山時代)から江戸中期までを扱った『葉隠』(1716年)によると、江戸の時代の極めて一部の武家でこれまでの主従関係に加え「同輩関係」の男色も見られるようになっていった。従前の君臣的上下関係はないが、念者(年長者)と若衆(年少者)という兄弟分の区別があり、若衆の多くは美貌を持つ少年だった。また前節で触れたように武士の男色が極めて一部の間で「衆道」といわれるようになったのも江戸期からだとされる。 女性増加と平和による衰退 江戸の町は女性よりも圧倒的男性が多く、男余りだった。結婚しようにも女性がいなかったため、独身男性で溢れていた。江戸初期にほぼすべての藩において衆道を厳しく取り締まるようになった。特に姫路藩主池田光政(1609年-1682年)は家中での衆道を厳しく禁じ、違反した家臣を追放に処している。江戸時代中頃になると、君主への忠誠よりも男色相手との関係を大切にしたり、美少年をめぐる刃傷事件などの諍いが一部発生したため、次第に問題視されるようになり、元禄も終わり江戸時代後半になると衆道は消滅していった。1721年(享保6年)の江戸の武家を除いた町人人口は約50万人で男性32万人に対して、女性18万人と2倍近く圧倒的に男性人口が多かった。安永4年(1775年)には、米沢藩の上杉治憲は男色を衆道と称し、厳重な取り締まりを命じている。江戸の天下太平で戦場に出ることがなくなると、このような戦地で部下の小姓で性欲処理する機会的同性愛の面がある衆道はしなくなっていった。のちに手軽な娼婦の売春や都市部の女性人口自体の増加により、戦場における武士や女性の少ない都市圏の男性が男色をする必要がなくなると急激に衰退していった。
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